自分を守り抜く技やコツの共有
死ねないと決めた以上、私は自分を守り、自分の居場所を、自分の力で見つけるしかありませんでした。大好きだった野球の世界の人たちなどが浴びせる価値観を断ち切るしかありませんでした。それは自分が輝いていた中学や高校の野球の日々を断ち切ることでした。
暗闇の毎日から現実の世界に引き戻そうとしてくれた人もいました。中学時代の恩師は夜、いつ電話をかけても相手をしてくれました。私が電話を切らない限り、何時間でも受け止めてくれました。仕事で疲れているのに、自分が受け持つ生徒でもないのに、大変だったでしょう。
放課後に時折、自宅に遊びにやってくる中学時代の野球部などの仲間は、他愛もない笑いを振りまいてくれました。そうした人たちにとって、ドブネズミのような姿の私でも構わなかったのです。野球で輝いている私でなくても構わなかったのです。嗚咽の日々が少しずつ変わり始め、笑おうとすると顔の筋肉が少しずつほぐれていくのを感じました。
高校生ながら、免許を取り400㏄のオートバイに乗りました。他校の生徒とケンカをしました。酒を飲んだこともありました。「あいつはとうとう道を外したな」と陰口を叩かれました。何と言われようと、その日を何とか生きるために、自分の居場所を探すことを優先しました。そうしないと自分が完全に壊れてしまう。おそらく、これが私の自考の始まりです。
母の死後、姉が東京の大学に行き、父と2人きりのわびしい毎日となりました。父は妻を失い、無口になりました。父親と息子の間に会話はほとんどありません。毎朝起きるとテーブルの上に、昼と夜の食事代の千円札が置かれていました。
食事は毎日ひとりで外食。週に1、2度、父は芋の煮っころがしを作ってくれました。お世辞にもうまいと言えませんでしたが、手作りの料理は嬉しかった。至極のご馳走でした。
苦悶する私を気にかけたのでしょうか。父は再婚しました。
「妻の死から2年経っていないのに再婚するなんて早すぎる」
そんな陰口が聞こえてきました。それが当時の価値観だったのでしょうか。
でも、新しい母親と新しい妹と一緒に暮らすようになり、私の心にやっと光が差し込みました。新しい母親と妹は希望でした。偏見など、気になりませんでした。死んだ母親への思いが変わるわけではありません。世間の価値観に押しつぶされないように、私たち新しい家族は、それぞれが、自分の居場所を見いだそうと懸命でした。
この高校時代の私の話は、未熟だった自分のちっぽけなストーリーです。もっと、はるかに厳しい状態で苦しんでいる人たちは世界中に大勢います。
でも、自分の力でしか自分を支えられない。自分で考えて、自分の居場所を見つけなければ、恐ろしい「世間」という魔物に押しつぶされてしまう。自考でしか自分を守れない。
このことをみなさんに伝えたい。私は元来、弱くて才能のない人間です。人より汗をかくことで、なんとかやってこれました。50代になっても、七転び八起きの日々です。
これまで、仕事柄、笑うことを忘れた大勢の人たちを目の当たりにしました。苦しくてどうしようもない人が目の前にいても、何の力にもなれない現場がたくさんありました。そんな無力感の中で、自分を守り抜く技やコツのようなものを、みなさんと共有できないか。そう思うようになりました。
それが、この自考というメッセージです。
岡田 豊
ジャーナリスト
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