母親ががんで他界、野球を捨てた
■暗闇の日々から立ち上がる 自考の始まり
ところで、本連載の筆者は何者なのか。自己紹介を兼ねて、ちっぽけな昔話をさせていただきます。中学を卒業したばかりの私が、もがく姿です。くだらない、大げさだと感じる方もいるでしょうが、恥ずかしながら、弱い人間だった私にとっては苦しい時間でした。その弱い人間が初めて自考しようとし、初めて自分の足で立とうとしていました。
「命を絶てば、この苦しみから解放されるのか」
茫然とした頭と心で、自問自答を繰り返していました。目で見る風景から本当に色が消えました。暗闇の中にいました。
私は高校1年生。授業が終わると、すぐさま自転車で帰宅。万年床で布団を被り、日常を断ち切る。嗚咽しながら、爪を立て敷布団をかきむしる。真っ暗な下水道をぴちゃぴちゃと這いつくばるような毎日。やっと息をしていました。自分であえて呼吸をしなければ、息が止まってしまいそうでした。
人生経験が浅く、小さなコップの世界しか知らなかった高校1年生。自ら招いたショックと挫折で、自分を絶望という言葉の中に追いやっていました。
中学を卒業し、高校に入学したばかりの4月、母親が、がんで他界しました。医療施設を退院して、やっと帰宅できた日の翌朝、母は息を引き取りました。たった1日ですが自宅で最期を迎えられました。父から「お母さんは胃潰瘍だ」と言われていたので、母の死は突然で、予想外で、衝撃でした。
胃潰瘍ならすぐ回復するだろうと思い込んでいたので、看病もせず、中学野球と高校受験の勉強に明け暮れていました。母親に反抗ばかりし、「いつか親孝行すればいいや」と流してきました。母の死後、胃潰瘍というウソは父の配慮だったとすぐに分かりましたが、母に寄り添わなかった自分を責め、強烈な後悔に襲われました。
私を大切に育ててくれた母に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。母親に何も恩返しができなかったことが、こんなに苦しいことだとは思いもよりませんでした。自分の中の何かが壊れてしまいました。
さらに、唯一の支えだった野球を捨ててしまいます。中学野球では群馬県高崎市の夏の大会で3年連続の優勝。中学3年最後の大会はキャプテンとしてチームを率い、群馬県大会で3位。群馬県の甲子園常連校2校から入学の誘いを受けましたが、別の高校の野球部に入り、甲子園を目指していました。東京六大学で野球をするのが夢でした。
しかし、母を失ったショックで精神のバランスが崩れ、グラウンドに立てなくなりました。自分は弱い人間だと初めて思い知らされました。野球しかなかったのに、自らよりどころを捨て、自信を失い、自分を追い詰めていました。無様でした。
「あいつはダメな奴だ」
選手として高く評価してくれていた周囲の野球関係者らは、手のひらを返したように退部した私を非難しました。高校野球という“伝統”の世界を裏切った仕打ちなのでしょうか。人を信じられなくなり、疑心暗鬼に陥りました。
顔から表情が消えました。生きているのか、死んでいるのか、分からないような朦朧とした状態。精神科医に診てもらえばよかったのでしょうが、そんな知恵も思い浮かびません。
ただ、自ら命を絶つことはできませんでした。他界した母親が、自殺を我慢してがんと闘い抜いたからです。父からそう聞かされました。想像を絶するがんの激痛。闘病中、母はハサミで手首を切ろうとしました。病室を勝手に這い出して近くの踏切に向かい、飛び込もうとしました。私が参加しなかった闘病生活は壮絶でした。
「自分が自殺したら、子どもが不幸になる」
回復への希望が薄れていく中、母親はその思いだけで激痛に耐えたそうです。自殺しないことが子どもを守ることだったのです。その母親の思いを台無しにするわけにはいきませんでした。