4―早くも一層の制度改正に向けた議論が浮上
1|保険適用の可能性が浮上
一方、政府全体で「次元の異なる少子化対策」が議論される中、出産費用の保険適用の是非が争点となっている。具体的には、自民議連が2023年4月の提言で、「出産費用に保険適用」「自己負担なし」という方向性を公表19。それに先立って、小倉將信こども政策担当相が2023年3月に示した「こども・子育て政策の強化について(試案)」では、「出産費用(正常分娩)の保険適用の導入を含め出産に関する支援等の在り方について検討」という文言が入った。
同年6月に示された「こども未来戦略方針」でも、出産育児一時金の引き上げや出産費用の「見える化」などの効果を見極めつつ、2026 年度をメドに、「出産費用(正常分娩)の保険適用の導入を含め、出産に関する支援等の更なる強化について検討を進める」という方向性が盛り込まれた。
もし保険適用に踏み切れば、出産費用の価格が診療報酬で設定されるようになり、出産育児一時金の引き上げが出産費用の上昇をもたらす事態を一定程度、食い止められる可能性がある。
しかし、これには異論も出ている。実は、出産費用には地域差が大きく、「保険適用は難しいのではないか」という意見が以前から示されているためだ。
実際、厚生労働省の資料によると、図5の通り、公的病院における正常分娩の出産費用には地域差が見られ、全国平均が45万4,994円であるのに対し、最高は東京都の56万5,092円、最低は鳥取県の35万7,443円と、最大1.6倍の差が存在する。このため、岸田首相も2023年3月の時点では、「地域差も見られる実態等を踏まえると、医療保険制度との整合性をどう考えるかなどの課題がある」などと消極的な見解を示していた20。
この地域差の要因についても、もう少し実証を要するが、厚生労働省の科学研究費補助金を受けた研究21では、その要因として、地域の所得水準や物価、地域の医療費水準、私的病院の割合、妊婦年齢の上昇や出産回数の減少などが考えられるとしている。
ここで、もし全国平均で診療報酬が設定された場合、平均を上回る地域の医療機関は対応を迫られることになる。実際、東京都医師会からは「分娩費用に限らず、診療報酬は全国一律ということで東京都の医療機関の経営状態が他の道府県よりも悪化している現実がある」「他の診療報酬を含め、全国一律で色々と論じることの限界が生じている」「本当に今のままでいいのか、分娩に限らず都道府県の実像に合わせた医療のあり方を検討する段階に来ているのではないか」との声が示されている22。
19 2023年4月12日、同月5日『朝日新聞デジタル』配信記事を参照。
20 2023年3月16日、第211回国会衆院本会議における岸田首相の発言。
21 2021年度厚生労働科学研究費補助金「出産育児一時金(出産費用)に関する研究」(研究分担者:田倉智之氏)を参照。
22 2023年4月11日の記者会見における東京都医師会の尾崎治夫会長のコメント。同日の『m3.com』配信記事を参照。
2|出産費用の保険適用は「古くて新しい問題」
そもそも、出産費用の保険適用は「古くて新しい問題」である。厚生労働省(前身の厚生省を含む)は保険給付と位置付けていない理由について、(1)出産は傷病ではない、(2)出産費用は事前に準備できる、(3)出産のニーズが多様――といった点で説明している23。健康保険法が1922年に制定された際の解説書でも、保険給付(=現物給付)とせず、分娩費を現金で支給することにした理由について、「産院や助産の設備を直ちに全国で完備することが困難」などの点が挙げられている24。
その後、病院での出産が増え始めた1960年代に保険適用が争点になり、当時の国会議事録では「平常だという形で(筆者注:正常分娩を)保険の対象外に置いておくところに(略)無理がある」という質問が寄せられ、当時の厚相が「研究」すると答えている25。その後も、この問題は尾を引き、厚相が「現金支給ではなくて、医療給付の対象になることが妥当ではないかという考えのもとに、次の保険の改正の場合には、検討を進めておる」と述べる一幕もあった26。
さらに厚生省官僚OBによる解説書によると、出産育児一時金が制度化された1994年当時も、やはり医療保険審議会(厚相の諮問機関)で保険適用が模索されたが、「出産費用に大きな地域差が見られる実態の下で産科関係団体などの理解が得られず最終段階で見送られた」という27。実際、当時の厚相は「あらかじめ準備できない段階の事由もないこと、また分娩に要する費用について地域格差が非常に大きいということ等の観点から、そうした方向での結論は得られなかった」と述べている28。
こうした事情を踏まえると、保険適用は以前から論じられているものの、地域差などがボトルネックになって見送られてきた経緯を読み取れる。既に触れた通り、地域格差の問題は今回も既に話題になっており、2026年度診療報酬改定に向けて、今後の議論の行方が注視される。
23 稲森公嘉(2011)「医療保険と出産給付」『週刊社会保障』No.2612を参照。さらに、歴史的な経緯を解説した先行研究では、健康保険制度が労働者保護から制度がスタートした点、敗戦後の占領軍による勧告の影響といった経緯・背景に加えて、(1)出産経費の標準化が困難だった、(2)診療報酬点数が助産婦レベルに統一化される懸念が示されるなど、医師サイドに現状維持を求める意見が強かった――といった点が指摘されている。大西香世(2014)「公的医療保険における出産給付」『大原社会問題研究所雑誌』No.663を参照。さらに別の先行研究では、制度創設時には産婆が専ら分娩を介助していたものの、その後は分娩場所や分娩方法が変わったのに、同じ給付方法が続けられていることで、現状との乖離が大きくなっていると指摘されている。小暮かおり(2016)「日本の健康保険における出産給付の起源と給付方法の変遷」『大原社会問題研究所雑誌』No.698を参照。
24 森荘三郎(1923)『健康保険法解説』有斐閣p165を参照。そのほかに「傷病と異なり、分娩では事故の発生が明確であり、詐病の弊害がない」という点も論じられている。
25 1960年11月28日、第36回国会参院社会労働委員会における横山フク参院議員の質問、中山マサ厚相の発言。
26 1968年4月9日、第58回国会参院予算委員会における園田直厚相の発言。
27 吉原健二・和田勝(2020)『日本医療保険制度史(第3版)』東洋経済新報社pp443-444を参照。
28 1994年6月22日、第129回国会参院本会議における大内厚相の発言。
3|政治的に焦点になりやすいテーマ?
付言すると、出産育児一時金は政治的に焦点になりやすいテーマである。この制度は喫緊の課題である少子化対策の側面を持っている上、国民に現金が直接的、または間接的に行き届く点で、政党や政治家にとって、国民に成果をアピールしやすい面がある。
例えば、出産育児一時金が2009年に引き上げられた時の経緯を簡単に振り返ると、政権獲得を目指していた民主党はマニフェスト(政権公約)などで、当時の出産育児一時金(35万円)に20万円を上乗せする方針を表明29。
これに対抗するため、当時の舛添要一厚生労働相が2008年8月、「お金のことを全く心配しないで(略)分娩費用も出るということの検討を開始したい」30と述べ、検討が加速した。与野党伯仲の当時と状況は少し違うとはいえ、政治主導で引き上げ論議が始まった点は今回と共通している。
29 民主党は2005年総選挙マニフェストで、出産育児一時金(当時の支給額は35万円)に加えて、「出産時助成金」として20万円を上乗せするアイデアを示し、2007年参院選マニフェストで踏襲された。その後、出産育児一時金が42万円に引き上げられたが、計55万円を支給する方針については、民主党が政権を獲得した2009年の総選挙マニフェストでも継続された。
30 2008年8月22日の閣議後記者会見概要、同年11月27日に開催された「出産育児一時金に関する意見交換会」資料などを参照。
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