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頼朝の死因は、落馬?溺死?それとも暗殺?
■初代「鎌倉殿」のナゾの死
2度目の上洛から2年後の1197年、悲運の大姫は若くして亡くなりました。
さらに、その2年後の年初、今度は「鎌倉殿」頼朝が帰らぬ人となったのです。『吾妻鏡』によると、死因は落馬。ほんとうなのでしょうか?
この前後の記録がすっぽりヌケ落ちていて、真相は明らかになっていません。これまで暗殺説・溺死説・糖尿病死説・性交死説など、さまざまな説が机上で戦わされてきましたが、いずれもエビデンスに乏しく、憶測の域を出ません。
ただ、いまも暗殺説がまことしやかに囁ささやかれるのは、先述した頼朝の姿勢にありました。
〈オレたち東国武士の棟梁が朝廷に媚びをうっている。東国を見捨てるのか!〉
〈リーダーが娘を天皇に嫁がせようとしている。これじゃ、あの清盛と同じじゃないか!?〉
頼朝をずっと支え続け、鎌倉幕府という武家政権を打ち立てた東国ボスたちのあいだに、「鎌倉殿」への不満が広がっていたという見方です。
さらにもっと穿った見方もあります。
〈頼朝が消えれば、わしらの天下になるのぅ……〉
この「わしら」がだれを指すのか。上昇志向が強く、家格を上げることに執心していた大姫入内プロジェクトの立案者の顔がうかぶかもしれません。事実、世はそう運んでいくのです。しかし、立案者の損得を冷静に考えると、これには疑問の声も上がるでしょう。
いずれにせよ、相模川の橋の落成記念式典に出席した帰路、体調をくずして落馬し、十数日後に亡くなったのは疑いありません。頼朝、享年53歳でした。
幼いころ、大姫には将来を誓い合った男子がいました。木曽義仲の長男・義高です。しかし、頼朝が義仲を追討。義高も人質として捕らえられました。
父の非情さを知る大姫は、密かに義高を逃がします。これを父・頼朝は見逃すことなく、義高を討ち取らせました。このとき、義高は11歳、大姫は5歳。悲しみに暮れた大姫は父を怨み、心を病んでいきました。それを知りながらも、父・頼朝は大姫を天皇に嫁がせようとしたのでした。
『吾妻鏡』は頼家を“無能のバカ息子”扱い
■2代目「鎌倉殿」の誕生!
頼朝の死は、朝廷にも衝撃をあたえました。
『新古今和歌集』の編者で、当代一の歌人・藤原定家も〈いったいどうしたことだ⁉ この先、とんでもない世になるぞ!〉と日記に書き残しています。
しかし、政治に空白をあけることはできません。
頼朝の死から20日もたたぬうち、2代目「鎌倉殿」こと源頼家の仕事始めの儀式(政所吉書始め)が催されました。
参列者は、北条時政・大江広元・三浦義澄・源光行・三善康信・八田知家・和田義盛・比企能員・二階堂行光・平盛時・中原仲業・三善宣衡の13人。
これは、歴史書『吾妻鏡』の記載順で、ポスト頼朝時代の序列に近いといえるでしょう。
このとき、頼家は18歳。弓馬の芸こそ秀でていたものの、幕府の偉大な創業者を継ぐには、あまりに若く、政治力は未知数でした。
『吾妻鏡』は、“無能のバカ息子”といった扱いで、頼家をさんざんに扱き下ろしています。
さらに、影の2代目候補がいたことが、ポスト頼朝時代の行く末をめんどうなものにしました。頼家の弟の千幡こと、源実朝の存在です。
実朝はまだ3歳でしたが、北条家で育てられ、北条氏が後見人を務めていました。いっぽう、頼家の後見人は、頼朝と同じく比企氏でした。
産みの親は同じ北条政子なのに、頼家・実朝兄弟ふたりの手足は、それぞれの後見人に縛られていたのでした。両者に睨みを利かし、争いのくびきとなり、一同を束ねていた初代「鎌倉殿」はいません。
ポスト頼朝の時代は、「頼家=比企氏」VS「実朝=北条氏」の構図で幕を開けます。
Q.鎌倉時代に新しく開かれた仏教は、みんなから信仰されたの?
平安時代の終わりから鎌倉時代の始めにかけて、新しい仏教がつぎつぎ起こりました。
法然の浄土宗、栄西の臨済宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、日蓮の法華宗、一遍の時宗です。開祖のほとんどは比叡山延暦寺で学びながらも、旧仏教(天台宗)の教えに疑問をもち、山を下ったのでした。
ひと昔前の教科書は「鎌倉新仏教」として紹介していましたが、この新しい宗派が一挙に信者を獲得したわけではありません。まだ天台延暦寺の力が強く、トップである座主は政治にも強い影響力をもっていました。
貴族の間では浄土信仰が流行していました。平等院鳳凰堂も中尊寺金色堂も、頼朝が建てた永福寺のお堂も、極楽浄土に導く阿弥陀仏を本尊としていました。
浄土宗を開いた法然は、当初は朝廷に重んじられましたが、旧仏教を保護する後鳥羽上皇によって土佐に流されました。弟子の親鸞も越後に配流。時代は下りますが、日蓮も幕府を攻撃したため、佐渡に流されます。
これに対し、幕府の保護を受けたのが栄西です。頼朝の死後、政子が創建した寿福寺に招かれ、禅宗の一派・臨済宗を広めました。栄西は東大寺再建でも重源のあとを継ぎ、朝廷にも貢献しています。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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