13人合議制の崩壊はささいな発言
■讒言の梶原、二君に仕えられるか?
13人合議制のメンバーのうち、最初に失脚したのは梶原景時でした。
梶原は頼朝の恩人であり、頼家の乳母夫であることから、源氏の「一の郎党」として重んじられていました。頼朝の晩年には、和田義盛に代わり、侍所の別当(長官)にも就任。事実上、御家人トップの座にあったのです。
そこそこ教養があり、弁も立つため、他の東国ボスたちを見下していたかもしれません。それゆえ、多くの反感を買っていました。
その反感のダムがあふれた失脚事件は、ささいな発言をきっかけに起こります。
主な登場人物は、有力御家人の結城(小山)朝光、北条時政の娘・阿波局(政子の妹)とその夫・阿野全成、三浦義澄の子・義村らです。
合議制開始からまもない1199年のある日、談笑の場で結城朝光がこう言ったのです。
〈忠臣は二君に仕えずというが、おれも頼朝様が亡くなったとき、出家すべきだったなぁ〜〉
結城は頼朝からの信が厚く、寝所警固衆に任命されていたほどでした。初代「鎌倉殿」の時代を懐かしむように、軽い気持ちで発した言葉だったのでしょう。本来、結城は控え目な性格でした。
しかし梶原景時は、この結城の「忠臣は二君に仕えず」という言葉を、〈結城は頼朝様には仕えたが、頼家なんかに仕えるつもりはない〉と解釈(曲解)し、頼家に讒言(他人を悪く言って陥れること)したのでした。
これを耳にした阿波局は、結城に〈梶原の讒言を頼家様が信じています。頼家様はあなたを討つおつもりですよ!〉と伝えたのです。
驚いた結城は、何かと頼りになる三浦義村に相談しました。義村は父・義澄とともに源平合戦のときから「鎌倉殿」に仕えてきました。このころ、幕府の要人になっていて、やがて、義村は北条氏の右腕として欠かせぬ存在になります。
さて、結城から相談を受けた義村は憤慨しました。
〈梶原は讒言を繰り返してきた。あいつのせいで破滅した仲間がどれだけいることか! みんなの声を「鎌倉殿」頼家様に伝えよう!〉
すると、御家人のなかから〈ワシも、オレも、ワレも!〉とばかり、梶原弾劾の賛同者が続々と現れたのです。
その数66人。合議制の13人をはるかに上回る数です。それどころか、合議制の御家人の大半が名を連ねていました。ふだんは慎重な事務方である大江広ひろ元もとも頼家に取り次がざるを得ません。
梶原は頼家に呼び出され、弁明の機会をあたえられました。
しかし、弁活巧みなはずの景時は黙して語らず。
〈そんなにオレは嫌われているのか。ここが潮時かもしれんなぁ……〉
〈くそっ、オレをはめやがった! いまに見ておけ!〉
梶原の胸のうちは、どちらだったのでしょうか。