比企の乱は北条のクーデター
■比企能員の乱の真実
梶原景時追討事件(1200年)と阿野全成謀殺事件(1203年)のあいだ、13人合議制の御家人のうち、ふたりが消えました。三浦義澄と安達盛長が他界したのです。享年は義澄74歳、盛長66歳。いずれも病死と思われます。
これで「13人」のメンバーのうち、梶原を含めて御家人3人が亡くなりました。
さらに阿野全成謀殺事件のあと、「鎌倉殿」頼家も死の淵に追いこまれました。急な病に倒れたのです。一気に、頼家の跡継ぎ問題が浮上しました。
3代「鎌倉殿」は、北条氏が後見人の千幡こと実朝(頼家の弟)か? それとも、「13人」のひとり比企能員が後見人の一幡(頼家の子)か?
一幡は、比企能員の娘・若狭局と頼家のあいだに生まれた子です。実朝は10歳、一幡は6歳でした。
こうしたなか、阿野全成謀殺事件の余熱も冷めやらぬうちに、比企能員の乱が起こります。
鎌倉御所の寝室でのことでした。父・比企能員の意を受けた若狭局が、頼家に時政追討を迫ったことがきっかけです。
〈北条時政を生かしておくと、一幡の世は訪れません。ご決断を!〉
たまたま、これを障子越しに聞いた政子は、父・時政に比企追討を迫りました。
〈比企能員が攻めてきますわ。ご決断を!〉
これを聞いた時政から、比企追討の相談を持ちかけられた大江広元は、困り果てました。
ただ、大江はなすべき仕事を、いや自分が生き残る術を心得ていました。今後どう転んでも、言い訳が立つよう、どちらとも解釈できる言葉を返したのです。
〈わたくしは政道を助ける立場でございます。兵法についてはわかりません。賢明なご判断をなさってください〉
この大江の態度・発言こそが“賢明”でした。宿老たちの“仁義なき戦い”が泥沼化・長期化するなか、このあとも大江はしぶとく生き延びます。
大江との会談後、時政は自分に都合よく、「賢明なご判断」をします。
大江からゴーサインをもらった、と解釈したのです。そして時政は仏教儀式を口実に比企能員を自邸に呼びよせ、中庭であっさり殺したのです。手を下したのは仁田忠常ら、北条の忠実な部下たちでした。
比企は人柄はよいものの、どこかヌケてたのかもしれません。このとき、何の警戒心も抱かず、無防備で、お付きの者もわずかでした。
さらに時政は、比企一族壊滅にかかったのです。
有力御家人に比企邸の襲撃を命じました。息子の義時、孫の泰時にくわえ、和田義盛、三浦義村、畠山重忠らも呼応し、比企一族を一瞬のうちに滅ぼしたのでした。このとき、頼家の子・一幡も焼死しました。
これを比企能員の乱といいます。
〈えっ? 比企は乱を起こしていないじゃん。北条の乱じゃないの?〉
〈時政の手際がよすぎるよ! 政子が障子越しに聞いたというのも、ウソっぽい昼ドラみたい〉
そういう声も、多々あります。
比企氏の所領は、すべて北条のものになりました。
比企能員の乱は、都にも伝わりました。天台宗のトップ(座主)慈円は、自身が耳にした乱の経緯を『愚管抄』に記しています。
そこには、北条政子が障子越しに聞いたという記述はなく、頼家は一幡への世継ぎが確かなものとなり、安心して出家したとあります。比企が時政を追討しようとしたなどという記述もありません。また、比企邸で一幡が焼死したのではなく、義時が逃げた一幡を追いかけて殺害したというのです。
都では、比企の乱ではなく、千幡を将軍に立てようと画策した北条のクーデターと見ていたのでした。