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「鎌倉殿」東大寺大仏殿再建に協力
■栄華の頂点、2度目の上洛
疑惑渦巻く曽我兄弟の仇討ちは思わぬ方向に転びました。平氏追討に貢献した弟・範頼がこのときの言動を疑われて粛清されたのです。義経に続き、弟を失うことで頼朝は足場を固めて栄華をきわめました。そんな折、頼朝は2度目の上洛を行います。
1195年2月、頼朝は大勢の御家人と政子、長女の大姫、長男の頼家を引き連れ、京の都に向かいました。上洛の「表向き」の目的は、東大寺大仏殿の落慶供養の儀(建物の完成を祝う儀式)に参列することです。
東大寺大仏殿は源平合戦中、平氏によって焼き払われていましたが、東大寺の焼失は身分を問わず、当時の人々にとって筆舌に尽くしがたい悲しいできごとだったのです。
東大寺は、奈良時代の聖武天皇の鎮護国家思想、すなわち仏教で国を平定させる考えによって建てられた寺院であり、仏教界の宗派を超えた拠り所でもありました。鎌倉幕府の成立を後押しした関白・九条兼実も、「父母を失うより悲しい」と日記に書き残しています。
そのショックは、どれほどのものだったのでしょうか?
記憶に新しいところでは、ノートルダム大聖堂の尖塔焼失(2019年・大火災)、あるいはバーミヤン渓谷の大仏破壊(2001年・内戦)に匹敵する、といっても過言ではないかもしれません。
東大寺大仏殿再建に至るまでの経緯を少し振り返りましょう。
源平合戦中の1181年の焼失から間もなく、後白河法皇の命令によって東大寺の再建計画が立てられました。
再建プロジェクト・リーダー(大勧進職)に任命されたのは、浄土宗のベテラン僧侶重源です。宋への留学経験がある重源は、仏法だけでなく、中国の土木技術も学んでいました。しかし、最新の技術で厳選された資材を使って再建するには、巨額の資金が必要です。重源は資金集めに奔ほん走そうしました。
これに協力したのが、「鎌倉殿」でした。頼朝は武士の棟梁として、出すべきときには惜しまないということを、しかと心得ていたのです。また、九条兼実も支援の手を差し伸べました。
そして1185年に大仏の開眼、1195年に大仏殿の完成へとこぎつけたのです。
「鎌倉殿」の御家人たちも、“よい仕事”をしました。
大仏の脇を固める重要な仏像のうち、重臣の中原親能・畠山重忠・梶原景時が3体の製造を負担したのです。
また、和田義盛と梶原景時は、供養の会の要人警護を担当しました。東大寺に向かう頼朝の行列も統制がよく取れ、先陣は和田義盛が務め、後陣は三浦義澄が務めました。当時33歳の江間小四郎こと北条義時も供奉していました。
こうして「鎌倉殿」と御家人たちは、朝廷にとって欠かせぬ存在になりました。最大のスポンサーとなり、最強の用心棒軍団となったのです。
落慶供養の儀に参列した頼朝は、さぞかしご満悦だったことでしょう。頼朝は平氏が焼き払った東大寺大仏殿を再建させたことで、自身が「王法」と「仏法」を支える唯一無二の存在であることを都じゅうに知らしめることができたのですから。
ただ、東大寺大仏殿の落慶供養参列は、上洛の目的のひとつにすぎませんでした。
艱難辛苦の末、東国武士団の尽力によって完成した大仏殿ですが、その後、再び焼失します。
戦国時代の1567年、悪名高い松永久秀が東大寺で戦を行った影響で焼失したのでした。織田信長は大仏焼失を久秀の悪行として公言しましたが、信長も、その跡を継いだ豊臣秀吉も、東大寺の大仏殿を再建することまでは手が回りませんでした。
再々建に至ったのは、江戸時代の半ば、17世紀末のことでした。現在の「奈良の大仏さん」は、この江戸期に完成したものです。ただ、規模では、鎌倉期の大仏にかないません。