イラストレーション=メイ ボランチ

承久の乱は鎌倉幕府軍の圧勝に終わります。後鳥羽上皇は完全降伏ともいえる院宣を出します。言い訳虚むなしく、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。こうして武士の政権が確立しました。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

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    尼将軍・北条政子の歴史的な演説

    ■北条政子の「活(カツ)」!

     

    1221年5月15日、後鳥羽上皇が全国の武士に向けて「義時追討の院宣」を出しました。承久の乱のはじまりです。院宣の内容は〈上皇側に付いて義時を討てば、恩賞をあたえる〉というものでした。

     

    そのため近年、上皇は鎌倉幕府を倒そうとしたのでなく、ただ義時を討つことが目的だったという説も強くなっています。一方、このとき「義時イコール幕府」だったことは疑いなく、上皇はやはり東国政権を潰つぶしにかかったのだという説も根強くあります。

     

    どちらであるにせよ、在京の御家人にとっては、討伐の相手が「鎌倉殿」ではなく、また恩賞ももらえるので、比較的受け容れやすい命令でした。

     

    さて、弟からリクルートされた三浦義村は、どう対応したのでしょうか?

     

    和田合戦では、直前に同族の和田義盛を裏切り、「三浦の犬は友を食らう」と蔑さげすまれた過去がある義村です。

     

    しかし、義村は弟からの手紙を持って、すぐ北条義時のもとに向かいました。そして、義時への忠誠を誓ったのでした。その後も義村は、北条氏に従うという点においては、一貫しています。

     

    追討を名指しされた義時を中心とする幕府は、どう対抗することにしたのでしょう。

     

    幕府の要人たちは、上皇軍と戦うことで一致していました。ただ、すべての御家人の意志が固まっていたわけではありませんでした。上皇軍と戦うことは、朝敵となることです。東国の猛者連中でも、さすがに腰が引けたのでした。

     

    そこに、「活(カツ)!」を入れたのが、尼将軍でした。北条政子の歴史的な演説(安達景盛が代弁した説も)で、御家人たちは奮起し、心をひとつにしたのです。

     

    〈みな、心をひとつにして聞きなさい。亡き「鎌倉殿」頼朝の御恩を忘れたのですか。官位といい土地といい、その恩は山より高く、海より深い。名誉を重んじるものは、ただちに逆臣を討ち取りなさい! 三代にわたる鎌倉を守るのです!〉

     

    さすがアネゴ、初代ボスの連れ! みな奮い立ちながら、初代ボス以前の“古き悪しき時代”を思い返しました。

     

    〈自分たちの土地が自由にならなかった。勝手に奪われた。朝廷からは、大番役や何やかやとこき使われた。東国の田舎モンと見下された。あんな時代に戻ってたまるか!〉

     

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      ※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

      「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

      「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

      大迫 秀樹

      日本能率協会マネジメントセンター

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