鎌倉幕府の実権を握った時政60代の迎春
■2代目「鎌倉殿」の最期
もう余命いくばくもない――。母・政子でさえ、息子の死を覚悟していました。ところが重病で瀕死の状態にあった頼家は、奇跡的な回復を遂げたのです。
しかし、頼家は快気祝いをするどころか、“怪奇呪い”をかけたくなるほど悶絶しました。一幡の死と比企氏滅亡の知らせを聞いたからです。最愛の息子と最大の後ろ盾を一度に失ったのですから、悲しみのあまり悶絶するのも当然でしょう。
そんな我が子・頼家の姿を見て、政子はどう思ったのでしょう?
〈跡継ぎは千幡(実朝)に決定! となったのに、なんでいまさら回復するのよぉ〜〉
〈一幡を殺すつもりなんてなかった。ああ〜、なんて不憫な息子なの……〉
息子をとるか、実家をとるかの二者択一。すでに実家を選択していたとはいえ、子を思う母・政子の胸のうちは察するに余りあります。政子が頼家の悲しみに寄り添おうとしたのは確かでしょう。
一方の頼家は、悲しんでばかりではいられません。ここに至って、ようやく時政追討を決意しました。和田義盛と仁田忠常に時政を討つよう命じたのです。
しかし、和田も仁田も、“比企能員の乱”の際は時政の傘下にありました。追討令を受けた和田がすぐさま時政にチクると、時政は頼家の追放を政子に命じます。
このとき和田と違ってチクりをためらい、〈頼家につく気色(様子)あり〉と見られた仁田はあっさり殺されました。手を下したとされるのは、小四郎こと北条義時です。比企の一件に続き、義時はしっかり爪痕を残しました。
もう、頼家に残された道はありませんでした。
政子のすすめを聞き入れ、出家するしかなかったのです。将軍の職を解かれ、伊豆国の修禅寺での幽閉生活を余儀なくされました。
人里離れた修禅寺の暮らしは侘しく、〈だれか使いの者を寄こしてよ〜〉と、しばしば政子や弟の実朝に手紙を送っていたようです。しかし、面会が許されたのは、監視役の三浦義村だけ。頼家は孤独でした。
1204年夏のある日、入浴中の頼家を刺客が襲いました。刺客の送り手は不明とされていますが、みな想像がつくことでしょう。
豪毅で武芸に秀でる頼家は、激しく抵抗しました。しかし、最期はふぐり(陰嚢)を斬られて、息絶えたのでした。享年23歳。2代目「鎌倉殿」の哀しく憐あわれな最期でした。
翌月、北条時政は大江広元とともに、政所の別当(長官)に就任します。
3代「鎌倉殿」征夷大将軍には、当然のなりゆきで、千幡こと実朝が就任していました。しかし、実朝はまだ12歳の少年です。合議制もカタチをなさなくなっていたので、後見人が幼き「鎌倉殿」を助けるしかありません。
実朝の後見人は、北条時政です。時政が、「鎌倉殿」実朝の代理人、すなわち執権として鎌倉幕府の実権を握ることになったのです。時政、60代半ばの“迎春”でした。
北条義時に討たれたとされる仁田忠常は、数多くの武勇伝を残しています。初代「鎌倉殿」頼朝が主催した富士の巻狩りでは、暴れ狂うイノシシをその背にまたがって仕留め、やんやの喝采を浴びました。
1203年、2代目「鎌倉殿」頼家が主催した巻狩りでは、頼家からいわくつきの洞窟「富士の人穴」の探索を命じられました。入ると穴中は地獄。仁田は、毒蛇の姿をした権現さま(富士信仰の神)から、「地獄の様子を話してはならぬ!」と口止めされます。
しかし、仁田は禁を犯し、頼家に伝えたのでした。その地獄の呪いで、仁田は亡くなったとも伝えられます。