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必ずしも「鎌倉殿イコール将軍」ではない
①「鎌倉殿」ってだれ?
日本の歴史は、ざっくり次の4つの時代に分けられます。
①豪族・貴族が支配する古墳〜平安時代、②武士が支配する鎌倉〜江戸時代、③明治維新と戦争の時代を経て、④戦後、国民主権の現在。
①は古代、②は中世・近世、③は近代、④は現代というくくりで、それぞれの移行期に「歴史は大きく動いた!」のでした。現代と地続きの明治維新と並んで、根底から社会を大きく変革させたのが、①から②への転換です。
この「武士の時代」創出の立役者になったのが、本連載の主人公たち、「鎌倉殿」と13人の合議制メンバーです。
「鎌倉殿」とは、いったいだれのことでしょう?
広い意味だと、鎌倉幕府の武士の長、つまり鎌倉を拠点にしていた武士のリーダーのことをいいます。狭い意味だと、鎌倉幕府を開いた源頼朝だけをさすこともあります。
<じゃあ、鎌倉幕府の征夷大将軍のことだね!?>
と即返されるかもしれませんが、征夷大将軍は役職のひとつにすぎません。厳密には、必ずしも「鎌倉殿イコール将軍」というわけではないのです。むしろ将軍が武士のリーダーだった時期は、頼朝による幕府成立からわずかの期間にすぎません。
この「武士の時代」の黎明期には、「鎌倉殿」に従う子分、すなわち御家人が大活躍しました。
御家人にとって、いちばん大事なのは土地でした。御家人は自分のもつ土地(所領)を守ってくれる「鎌倉殿」のために、命をかけて戦いました。これを奉公といいます。
「鎌倉殿」はそのお返しに、御家人がもつ所領を保障し(本領安堵)、御家人が戦功をあげると新しい所領をあたえました(新恩給与)。これを御恩といいます。
こうして「鎌倉殿」と御家人は、土地を介した御恩と奉公という主従関係によって結ばれていました。初代「鎌倉殿」こと源頼朝が亡くなると、幕府の政治は特に頼朝と強い絆きずなのあった有力御家人の合議制によって運営されます。本書がスポットをあてる13人のメンバーたちです。
②小四郎こと義時の誕生
平安時代末期、平氏全盛の1163年。
伊豆半島北部で、ひとりの男児が生を受けました。のちに13人のメンバーのなかから頭角をあらわし、「鎌倉殿」をしのぐ存在になる北条義時の誕生です。
義時の父は、伊豆半島に所領をもっていた北条時とき政まさ、母もその近くに所領をもっていた伊東祐すけ親ちかの娘です。北条氏も伊東氏も東国(せまくは関東地方をさす)の伊豆・駿河・相模・武蔵に群雄割拠していた地元のボスのひとりでした。
歴史書『吾妻鏡』によると、北条氏は桓武平氏の流れをくむ平直なお方かたの子孫とされていますが、その後の系譜も諸説あり、確かなことはわかっていません。勢力がどれほどのものだったのかも不明です。
東国では、平氏の流れをくむ武士たち坂東八平氏が在庁官人として強い力をもっていました。在庁官人とは、国司(都道府県知事のような存在)に仕える下っ端ぱ 役人のことです。多くは現地のボス(豪族)が任命されていました。下っ端とはいえ、在庁官人は所領をもっていたので、地元の顔役として羽振りを利かせられました。
北条氏の地位はどれほどのものだったのでしょうか?
まず、北条時政が在庁官人だったのかどうかは、はっきりしていません。軍勢も小規模で、基盤は弱かったといわれます。ただ、時政はほかのボス連中から一目置かれ、東国では名が知られていたようです。都の宮廷警備などを務めた経験が多いことから、貴族とのパイプもあったといわれますので、その辺りの事情もあったかもしれません。
また、北条氏が所有する伊豆の領地は、国府(国ごとに置かれた役所)の三島にも近く、東西を結ぶ海上交通の要所でもありました。地理的にも優位なところだったのです。
時政は北条四郎とも名乗っていました。その四郎の子・義時は、青年期に江間の地を所領にしてからは、江間小四郎(江間四郎)と呼ばれることになります。執権になるまで、義時が北条姓を名乗ることはありませんでした。
つまり、小四郎こと北条義時は、北条家のあと継ぎとして期待されていたわけではなかったのです。嫡男(正妻から生まれた男子、跡取り)には兄の宗時がいて、通常なら宗時があとを継ぐはずでした。ところが、頼朝挙兵時の石橋山の戦いで宗時が討死し、その後、義時が「鎌倉殿」頼朝に従ったことで運命が開けるのでした。