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13人の古参役員の合議制がスタート
■頼家への激しいバッシング
2代目「鎌倉殿」こと源頼家は、一般的に“無能”のレッテルが貼られています。
源家の家督を継いだ頼家は、まだ18歳でした。しかし、創業者との比較ゆえでしょうか、のちの北条政権を正当化するためでしょうか、『吾妻鏡』は頼家に容赦ありません。
最も有名なエピソードが、境相論への頼家の対応です。特に東国は無法地帯化していたこともあって、この争いは激しく、解決に数十年がかかる事案も少なくありませんでした。
先代の頼朝は両者の言い分を聞いたうえで、落としどころを見つけ、御家人の信頼を勝ち得てきました。御家人に多少の不満があったとしても、「鎌倉殿」が決定したことに異議は唱えられません。
では、頼家は土地争いにどう対処したのでしょうか?
あるとき、問注所執事の三善康信が親裁(君主の裁決)を仰ぎにきた事案に、頼家は地図の中央に墨でささっと線を引き、〈これにて一件落着!〉とばかりに裁決したというのです。
さらに、気まぐれで人事権を行使し、これまで幕府を支えてきた御家人の守護職を解任した。有力御家人の広大な所領を取りあげ、所領をもっていない者に配分しようとした。蹴鞠や鷹狩に夢中になって、政務をないがしろにした……。
すべて『吾妻鏡』の記述です。
こうした頼家の悪政に、放っておけないと立ち上がったのが、先代を支えてきた高齢の役員たちでした。
〈このまま2代目に経営を任せたままだと、会社は倒産してしまうぞ!〉
〈すでに多くの社員の心は離れつつある。かといって、社長をクビにするわけにはいかないし。困ったのぅ……〉
そこで、13人の古参役員たちによる合議制がスタートしたのでした。古参役員とは、初代「鎌倉殿」を支えた東国ボスたちと実務経験豊かな官人たちのことです。
■2代目「鎌倉殿」悪政のホント?
合議制の提唱者は、北条時政・政子父娘といわれます。『吾妻鏡』には、頼家をめぐる次のエピソードも残されています。
〈有力御家人の安達景盛(盛長の子)には、美人の愛妾がいた。景盛の不在時、頼家はこの女性を連れ去った。そして近くの邸宅に囲いこみ、入りびたった。さらに「景盛が頼家を恨んでいる」という噂を耳にすると、景盛を抹殺しようとした。あきれた政子が、頼家を激しく叱責した。〉
いくら我が子とはいえ、見過ごすわけにはいかない。政子も危機感を抱いたというわけです。