イラストレーション=メイ ボランチ

日本三大仇討ちのひとつとされる、曽我兄弟の仇討ち。曽我十郎祐成と五郎時致兄弟が、父の伊東祐泰を暗殺した工藤祐経を殺害するという事件です。曽我兄弟の仇討ちには隠された暗殺計画があったといわれています。これを読めば大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が楽しめること間違いなし。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

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「北条陰謀説」事件の黒幕は北条時政?

それから13年後。

 

征夷大将軍となった源頼朝は、一大イベントを開催しました。「弓馬の道」に長けた御家人22人を選び、信濃・下野・駿河国で2〜3か月にわたり、大規模な狩猟大会を行ったのです。

 

侍所別当の和田義盛はもちろん、小四郎こと北条義時も名を連ねていました。加えて、伊東祐親の孫ふたり、曽我十郎祐成(22歳)と五郎時致(20歳)も名を連ねていたのです。

 

この曽我兄弟の烏帽子親は、北条時政でした。そして時政は、この大狩猟大会の総合プロデューサーでもありました。

 

最終日も近い5月、富士の裾野でのこと、曽我兄弟が突然、伊東の地頭職にあった工藤祐経を斬殺したのです。巻き込まれた多くの御家人が負傷し、頼朝も刀を構えるほどの大混乱に陥ったのでした。

 

背景には、何があったのでしょうか?

 

殺された工藤祐経は、かつて伊東祐親とともに京で平氏に仕えたことがありました。しかし、土地をめぐる争いから、伊東祐親とその子河津祐泰と激しく対立。もつれにもつれ、工藤祐経は河津祐泰を殺害してしまいました。

 

なお、親子で名字が異なるのは、で説明した通りです。祐泰は、父・伊東祐親から河津の所領を継いだことで、河津祐泰と名乗っていたのでした。

 

河津祐泰にはふたりの子どもがおり、5歳と3歳の幼い兄弟でした。このふたりが曽我兄弟なのです。ふたりの母が曽我氏と再婚したので、彼らは曽我姓を名乗っていました。そう、曽我兄弟は父の仇である工藤祐経を討ったのでした。

 

一方の殺された工藤祐経は、都で公家の振るまいを学び、歌舞にも武芸にも優れていました。そのため、雅な京の公家文化を好む頼朝に気に入られ、有力御家人として取り立てられて頼朝のそばにいたのです。

 

斬殺の直後、兄の祐成はその場で仁田忠常に討たれ、弟の時致は捕まって処刑されました。仁田はその挙兵時から頼朝に従っていた、「鎌倉殿」に忠実な御家人のひとりです。

 

その後、曽我兄弟の仇討ち事件は、遊女らによって美談の「曽我語り」として広まります。

 

<幼な子が憎しみを胸に抱えたまま立派な青年に成長、父の仇を討ったのねぇ。泣けるわ〜。なんて切ないのでしょう♡>

 

鎌倉時代後期には、『曽我物語』としてまとめられました。

 

しかし、この事件は美談だけでは終わりません。

 

<曽我兄弟の刃は頼朝にも向けられた。頼朝は間一髪で暗殺を逃れた!>という説があるのです。曽我兄弟にとっては、頼朝も憎しみの対象でした。祖父・伊東祐親を死に追いやったからです。

 

また、<事件の黒幕は北条時政に違いない。時政が刃を向けさせたのだ!>という北条陰謀論もあります。

 

先述した通り、時政は曽我兄弟の烏帽子親であり、弟の曽我時致は時政から「時」の名を戴いているほどでした。それに、時政は総合プロデューサーとして、事件の舞台となった大狩猟大会を仕切っていました。陰謀論が生まれる素地は十分にそろっています。

これを支持する歴史家は少ないものの、このころからさまざまな事件で“北条黒幕説”が取り沙汰されるようになります。

 

▶鎌倉時代のハテナ
Q.鎌倉時代の武士は、どんな生活を送っていたの?
ひとことでいうと“地味”。敷地は広いものの、住まいは板葺きの平屋でした。有力な御家人でも、普段は質素な半農生活を送っていました。
ただ、武士の本分は「弓馬の道」です。和田義盛が侍所の別当に任命されたように、武士は弓と乗馬の腕で評価されました。「いざ、鎌倉!」という将軍の召集に備えて、みな流鏑馬・笠かさ懸がけ・犬いぬ追おう物ものなどで日々の訓練を欠かしませんでした。
流鏑馬は馬上から(3つの)的に向かって矢を射る武芸、笠懸は流鏑馬の簡易版で、同じく馬上から笠を射る武芸です。犬追物も馬場に放たれた犬を馬上から弓で狙う武芸。いずれも、弓と馬の技術が欠かせません。
名誉を重んじ、恥を嫌う。これも武士の本分でした。伊東祐親・祐清親子が頼朝の許しを拒絶したのは恥を嫌ったからであり、曽我兄弟の仇討ちも父の亡骸(なきがら)の恥をすすぐためでした。武士として守るべきこうした道徳規範は、「もののふの道」と呼ばれます。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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