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頼朝、鎌倉三大寺院「永福寺」の創建へ
■王朝文化の再現と鎮魂
1189年から頼朝は、新しい寺の創建に着手しました。鶴岡八幡宮、勝長寿院と合わせて鎌倉三大寺院に挙げられる永福(ようふく)寺です。
頼朝が建造に最も強く意気込んだのは、この永福寺かもしれません。正面中央に二階建ての仏堂、左右に阿弥陀堂と薬師堂を配し、それぞれの外側には長い釣殿が庭園と池を囲むように突き出ていました。伽藍の全長は、東を正面に約130m。
建築様式は、頼朝が憧れた宇治の平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺・大長寿院(二階大堂)、あるいは無量光院を模しています。
頼朝は鎌倉の地に王朝文化の象徴を再現するため、京都から庭園造りの専門家を呼び寄せ、庭石の配置ひとつにもこだわりました。
中央の仏堂は二階堂と呼ばれ、永福寺の別名にもなっています。ちなみに、「13人」のメンバー二階堂行政は、永福寺のすぐそばに居を構えていたことから、二階堂と名乗るようになりました。元は、藤原南家の工藤姓です。
頼朝が永福寺を建てた理由は、王朝文化の再現だけではありません。流人時代の頼朝は、読経の毎日だったとも伝えられます。都の多くの貴族たちと同じく、浄土信仰の仏道に深く帰依していました。頼朝のもうひとつの顔です。しかし、頼朝の手は血に染まっていました。
山木兼隆にはじまり、平氏一族、同じ源氏の義仲に義経、そして奥州藤原氏……。何千、何万もの亡き魂を鎮める寺が必要だったのです。また永福寺は京都の延暦寺と同じく、鎌倉の丑寅(東北)の方角にあり、災いを防ぐ「鬼門」の役も担っていたのかもしれません。
その後、永福寺は室町時代にすべて焼失し、いまは再現された基壇や池だけが往時の面影をしのばせます。
■「鎌倉殿」暗殺のピンチ!?
順風満帆な「鎌倉殿」頼朝に、1193年5月、暗殺の危機が訪れます。
火種の元は、工藤一族の伊東祐親でした。祐親は伊豆国のボスのひとりで、さまざまなカタチで「鎌倉殿」にかかわってきました。
まず彼は、伊豆に流された頼朝の最初の監視人でした。しかし、頼朝と娘がデキて男児が生まれると、怒った祐親はその子を殺し、頼朝にも刃を向けました。このときは、祐親の子・祐清が頼朝を北条時政のもとに逃がしました。続いて頼朝が旗揚げしてまもない石橋山の戦いでは、大おお庭ば 景かげ親ちかについて頼朝軍を撃破しました。
その後も伊東祐親・祐清父子はずっと平氏方の一員として頼朝と対立し、富士川の戦いにも参戦しましたが、この戦いのあとに捕らえられます。しかし、祐親の娘婿だった東国の大ボス三浦義澄が頼朝に嘆願したことで、無罪放免になったのでした。ところが、これを恥とする祐親は受け入れず、自ら命を絶ちました。