イラストレーション=メイ ボランチ

頼朝が鎌倉を拠点にしたのは、「源氏ゆかりの地」であることが最大の理由だといわれます。南は海に面し、他の三方は山に囲まれているので、鎌倉は「自然の要塞都市」というわけです。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

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「要塞都市」鎌倉はどのような場所だったか

■持続可能な“コンパクト・シティ”

 

源頼朝が「鎌倉殿」と呼ばれることになったのは、当然、武士政権の拠点を鎌倉に置いたことによります。鎌倉はどのような地だったのでしょうか?

 

幕府が開かれるまでの鎌倉について、『吾妻鏡』は〈漁民と老人しか住んでいない辺鄙な田舎だった〉とディスっています。

 

しかし、すでに源頼義が11世紀半ば、由比ヶ浜に鶴岡八幡宮を勧請していました。

 

規模はともかく、そこそこ開けていたと考えるのが自然でしょう。それどころか、鎌倉は古代から、交通の要衝・景勝地として知られていました。古代の役所(郡衙)跡が発掘されており、『万葉集』にも鎌倉を詠んだ歌が数首収録されています。

 

頼朝が鎌倉を拠点にしたのは、「源氏ゆかりの地」であることが最大の理由だといわれます。

 

そしてそれ以上に、中学の歴史教科書などは「防御に適していること」を強調しています。南は海に面し、他の三方は山に囲まれているので、鎌倉は「自然の要害の地」というわけです。

 

実際、北から鎌倉に入るには、「切通」と呼ばれる7つの細い掘削路を通らなければなりませんでした。大軍が一挙に攻め入るのは困難です。切通の要所には、有力御家人が邸宅を構えており、少人数だと簡単に返り討ちにされてしまいます。

 

都でも難攻不落の地と知られていたようで、先ほどの九条兼実が日記『玉葉』に、「鎌倉城」と記しているほどです。

 

海に面していることも、大きいといわれます。相模湾から伊豆半島や房総半島に通じる海は、重要な交通路でした。こうした点から近年は、防衛面以上に東国の海上交通の重要性に絡めて、海に開けた鎌倉の立地の優位性を強調する声が増えています。

 

鎌倉の陸地は広くありません。そのため、「内で守る」ことよりも、「外に向かう」ことのほうが、よりメリットが大きいという見方です。少し先のことになりますが、3代執権北条泰時は、宋からの貿易船が着港できる港湾設備も整備しています。

 

さらにその後の為政者たちが、建長寺や円覚寺など臨済宗の寺院をつぎつぎ建て、鎌倉に鶴岡八幡宮と鎌倉五山を備えた宗教都市という肩書きも加えました。

 

このように、鎌倉はさまざまな機能・装置を兼ね備える、サスティナブル(持続可能な)な幕府の未来に向けた“コンパクト・シティ”なのでした。

 

頼朝の先見は、21世紀まで射程に捉えていたのでしょうか? 

 

いま、「持続可能な都市」鎌倉は、東国のみならず日本を代表する国際観光都市として、世界じゅうから多くの観光客を集めています。

 

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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