イラストレーション=メイ ボランチ

承久の乱は鎌倉幕府軍の圧勝に終わります。後鳥羽上皇は完全降伏ともいえる院宣を出します。言い訳虚むなしく、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。こうして武士の政権が確立しました。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

承久の乱は鎌倉幕府軍の圧勝に終わる

■後鳥羽上皇の全面降伏

 

幕府軍の大軍勢が京に向かっている。

 

知らせを聞いた後鳥羽上皇は絶句しました。

 

〈三浦胤義の手紙で義村は寝返る。御家人は恩賞欲しさに、みな上皇軍につくはずだ〉

 

そんなシナリオがもろくも崩れ去ったのです。

 

迎え撃つ上皇軍の軍勢は2万足らず、(『吾妻鏡』どおりとすれば)幕府軍の10分の1ほどでした。

 

あわてて、木曽川に防衛ラインを敷きますが、難なく突破されます。そして戦意を喪失した上皇軍から、つぎつぎに離脱者が出ました。

 

6月8日、比叡山の麓に退避した後鳥羽上皇は延暦寺に、衆徒こと山法師(僧兵)の動員を求めます。しかし、延暦寺の回答はつれないものでした。

 

〈衆徒の力は微力なり。東国武士の強威を防ぐことはできない〉

 

集まったのは、戦闘好きな荒法師だけでした。幕府第一陣の泰時軍が出発してから、たった2週間余りで大勢は決したのです。それでも、京の都だけは死守しなければなりません。

 

上皇軍は瀬田川と宇治川(瀬田川の下流)に最終防衛ラインを敷きました。各所の陣営のなかには、大江親広・藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱らの姿がありました。

 

結果、そこそこ応戦しましたが、〈官軍の将として、討ち死にしてでも最期を飾る〉というほどの覚悟はなかったようで、最後はみな敗走したのでした。

 

6月15日、北条泰時と時房が入京。承久の乱は、幕府軍の圧勝に終わりました。

 

後鳥羽上皇は新たな「院宣」を出しました。

 

〈この乱はわたしの意志ではない。謀反をくわだてた「逆臣」が起こしたものである〉頼朝が「大天狗 」と呆れた後白河上皇の言い訳を彷彿とさせます。孫の後鳥羽上皇も、やはりその血を受け継いでいたのでしょうか。

 

言い訳虚むなしく、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。

 

順徳天皇は廃位されて上皇として佐渡へ流され、先代の土御門上皇はみずからの意思で土佐に下りました。上皇方についた御家人や貴族の大多数が死罪や流罪を言い渡されました。

 

次期天皇には、北条義時の事実上の指令によって、後鳥羽上皇の直系ではない、2歳の後堀河天皇が即位しました。

 

「治天の君」が配流されるのは前代未聞のこと。それに加えて、4代目「鎌倉殿」政子・義時姉弟は、天皇の任命権まで握ったのです。

 

世の中は大きく変わりました。

 

もちろん、4代目「鎌倉殿」姉弟は御家人への恩賞も忘れません。後鳥羽上皇が所有していた皇室領荘園や京貴族の荘園3千余りを没収し、御家人たちに分けあたえたのです。

 

西国の地頭職を得た東国ボスの子孫たちは、大手を振って新しい人生を歩み始めました。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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