政子・義時体制はしばらく安定していたが
■つかのまの平穏無事
1210年春、3代目「鎌倉殿」実朝は朝廷から従三位に叙せられました。
このとき、実朝18歳。あいかわらず、京文化への憧れを隠しませんでした。『新古今和歌集』の写本が鎌倉に届いたときは、大コーフン。みずからも歌作を始め、当代一の歌人藤原定家の指導を仰ぎました。
実朝と定家の仲立ちをしたのは、飛鳥井雅経です。大江広元の娘が飛鳥井の正室として嫁いでいたことからの縁でした。飛鳥井は蹴鞠の達人で、飛鳥井流蹴鞠(難波流と並ぶ蹴鞠の流派)の創始者としても知られます。
また、学問の家庭教師および行政の指導役として、都から源仲章が鎌倉に派遣されました。仲章は政所別当のひとりとして実朝の政務を支えます。こうしたサポートを受け、実朝は幕府の政治にも少しずつ関与するようになっていました。
ただし仲章は、後鳥羽上皇の近臣だったので、朝廷のスパイだったという声もあります。
このとき、13人合議制の創始メンバーで政治の舞台に残っていたのは、北条義時・和田義盛・大江広元・三善康信の4人。御家人は北条義時と和田義盛のふたりだけになっていました。
ただ、創始メンバーのジュニアたちが側近として仕えていました。義澄の子・三浦義村、盛長の子・安達景盛らです。このあとも、彼らは歴史の表舞台で重要な役割をはたします。
なお、中原親能は1208年に亡くなっています。足立遠元は1207年に闘鶏会に参加したという記録を最後に、どの文献にも出てきません。二階堂行政も、実朝の時代からは記録が残っていません。生きていたとしても80歳近い高齢だったので、政界からは引退していたのでしょう。
政子・義時体制は、しばらく安定していました。義時が執権となっても、専制に走らなかったからです。義時は父・時政を反面教師にしたのでしょう。御家人の不信感を招くような行動を慎んでいました。官人の大江広元や三善康信の協力を得ながら、しっかり「鎌倉殿」実朝を支えていたのでした。
【全貌はコチラ】「鎌倉殿の13人」宿老たちはどんな人物だったのか?
■北条は「鎌倉殿」か?
13人合議制の創始メンバーで残る武士は、第2代執権の北条義時と三浦ファミリーの筆頭となっていた和田義盛だけです。
ふたりが協力し合えば、“仁義なき戦い・鎌倉死闘編”は幕を閉じる――。
はずでしたが、両雄並び立たず。和田義盛は源頼朝と同じ1147年生まれであり、1163年生まれの義時にとってはかなりの先輩で、煙たい存在でした。初代「鎌倉殿」決起時からの幕府の“長老”として幅を利かしていたのです。実朝にも少しずつ接近していました。
和田義盛にとっては、源氏こそが「鎌倉殿」であり、北条氏は仰ぎ仕える殿ではありません。もとをたどれば同じ東国のボス同士、いや三浦一族より北条一族は格下という意識さえどこかにあったのでしょう。
しばらく平穏だった鎌倉で、1213年2月に陰謀事件が発覚します。
安念というひとりの僧が、千葉成胤(千葉常胤の孫)のもとを訪ねてきました。千葉氏は一族で源氏を支え、成胤も祖父・常胤や父・胤正に従い、源平合戦や奥州征伐に加わりました。祖父の千葉常胤は13人合議制メンバーには選ばれなかったものの、石橋山の戦いに敗れた頼朝のもとに参じ、感激した頼朝から「そなたを父と思う!」とまで言われたほどの人物です。