「いますぐ進軍すべき」の先制攻撃論
■守るか、攻めるか?
上皇軍とどう戦うか?
幕府内では、意見が真っぷたつに分かれました。ひとつは、「天然の要塞」鎌倉でどっしり構え、足柄や箱根の関所で上皇軍を迎え撃つという守勢論。もうひとつは、都まで軍勢を進め、一気に倒すという先制攻撃論。
大勢を占めたのは、守勢論でした。ところが、官人の大江広元がこう断じたのです。
〈間を空けると、御家人のあいだに迷いが生じる。守勢に立つと、いらぬ動揺が広がる。運は天にまかせればよい。いますぐ進軍すべきである!〉
軍人顔負けの強硬な主戦論、先制攻撃論です。
北条政子も、これにうなずきました。
それでも、全員一致とはならず、引退していた重鎮にお伺いを立てることにしました。大江とともに官人として、「鎌倉殿」を支えてきた「13人」のひとり三善康信(善信)です。
大江と同じく、宮仕えの経験豊かな三善は、上皇の狙いも出方も、御家人の動揺も、すべてお見通しだったのでしょう。
〈議論するまでもない。何もしないのは怠慢である。大将軍ひとりでも先陣を切れば、みなついて行くであろう〉
大江も三善も、御家人こと東国ボスたちの結束力や忠誠心を信じていたわけではありません。むしろ、過去一連の“仁義なき戦い・鎌倉死闘編”を通して、東国ボスの所為・挙動を警戒するようになっていました。だからこそ、〈早く出陣せよ!〉と駆り立てたのです。
だれかが先陣を切れば、恩賞欲しさに負けじとみな出陣する。しかしグズグズしていると、みんなバラバラになるに違いない、と。
これで義時以下、幕府首脳はみな吹っ切れました。
5月22日、義時の命を受けた息子・北条泰時の先陣が鎌倉を発ちます。さすがに「大将軍ひとり」ではありませんでしたが、その数わずか18騎での出陣でした。
ところが、それから3日間のうちに、東国の御家人たちが〈ワシも、オレも、ワレも!〉と、雪崩を打ったように決起したのです。大江と三善の進言は正鵠を射ていました。間違っていなかったのです。
幕府軍は東海道・東山道・北陸道の3つのルートに分かれ、京に向かいました。『吾妻鏡』によると、その数19万人。さすがにこれは“主催者発表”なので、盛りすぎでしょう。
しかし、幕府の動きを探りにきた朝廷の使いの目には大軍勢が映ったことは間違いありません。