イラストレーション=メイ ボランチ

源頼家が暗殺された翌1205年春、畠山重忠の乱が起こりました。畠山重忠は「坂東武士の鑑」といわれました。怪力かつ勇猛でありながら、実直かつ情に厚い。畠山の謀反の疑いから、無念の最期を迎えることになります。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

「坂東武士の鑑」畠山重忠、無念の最期

■畠山重忠謀反のホント?

 

乱のきっかけは酒席の場でした。

 

主な登場人物は、重忠の嫡男・畠山重保、北条時政の後妻・牧の方、その娘を娶った京都守護・平賀朝雅、そして北条義時です。場所は、京の平賀邸。

 

ここで、重保と平賀が激しく口論をしたのです。

 

周囲の者がなだめたものの、怒りが収まらない平賀は義母にあたる牧の方に讒訴しました。

 

口論の理由は定かではありませんが、畠山一族が所有する武蔵国の所有権をめぐる争いだったと考えられています。かねてから、北条一族と畠山一族はこの地をめぐって、ピリピリした関係にありました。

 

平賀の讒訴を受けた牧の方は、畠山重保を処罰するよう、時政に強く求めました。

 

牧の方の色香にメロメロだった時政は、当然「ノー」とは言いません。それどころか、こう考えたのです。

 

〈いい口実ができた。畠山一族をここで一気に滅ぼすか!〉

 

息子の義時と時房を呼び出し、畠山重忠・重保親子を謀反のかどで追討するよう命じたのです。

 

これまで父の命令に粛々と従ってきた義時ですが、このときばかりは違いました。義時も畠山重忠のことを、同世代ながら「武士の鑑」と尊敬していました。弟の時房も同じ思いでした。口を合わせて、こう反論したのです。

 

〈重忠は忠臣として、これまで「鎌倉殿」に仕えてきました。確かな証拠もないのに、どうして討てましょうか!?〉

 

時政は返す言葉なく、席を立ちました。

 

しかしその後、牧の方の兄が義時のもとを訪れ、〈畠山の謀反は疑いない〉と説得してきたのです。義時はこれも讒訴と疑いつつも父たちからの圧力に堪え切れず、やむなく畠山追討軍を率いることになったのでした。

 

気が重かった義時とは対照的に、畠山に怨みをもつ三浦ファミリーの三浦義村と和田義盛は積極的でした。まず義村が重保を倒し、続いて北条義時・時房と和田義盛らの率いる数百の軍勢が、重忠の追討に向かいました。

 

対する重忠の兵は、百余騎。謀反を起こす軍勢としては、あまりにも少なすぎます。死闘の末、「坂東武士の鑑」は粉々に砕け散りました。重忠、無念の最期でした。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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