北条時政は、この世の春を謳歌
■時政の栄華と「坂東武士の鑑」
1204年、政所の別当(長官)となった北条時政は、この世の春を謳歌していました。
我こそが「鎌倉殿」を超えた“鎌倉の主”であるとばかりに、幕政を思いのままに動かしはじめたのです。鎌倉幕府の主権の根幹といってもよい、御家人の恩賞もみずから裁定しました。そのそばには、牧の方という若い後妻がよりそっていました。
また、3代目「鎌倉殿」実朝の妻に、後鳥羽上皇の従兄妹にあたる坊門信子(坊門信清の姫)を迎えました。このとき実朝は14歳、信子13歳でした。京文化とりわけ和歌を好む実朝と、幼いながらも教養豊かな信子は、すぐに意気投合したようです。
こうして時政は朝廷との“いい関係”もバッチリ築くことができたのです。
一方、時政の子・北条義時は、深い後悔の念に苛まれることになります。頼家が暗殺された翌1205年春、畠山重忠の乱が起こったからです。乱の経緯を紹介する前に、畠山の人となりに触れておきましょう。
畠山重忠は「坂東武士の鑑」といわれました。怪力かつ勇猛でありながら、実直かつ醇厚(情に厚い)。源氏への恩義を忘れず、頼朝に帰服し、源平合戦で義経を支え、義仲の追討でも戦功を挙げ、奥州征伐では先陣を務めました。
あるとき、梶原景時の讒言によって謀反を疑われ、所領を没収されたことがありました。しかし、畠山はいっさい言い訳をしませんでした。
〈武士に二言はない。起請文を書くまでもない〉
起請文とは、神仏にかけてウソではないと誓約する文書のことです。畠山重忠は毅然とした態度で、それすら必要ない、と言い切ったのでした。
畠山の嫌疑を晴らしたのは下河辺行平ら、ふたりをよく知る御家人でした。畠山は文武両道に秀でながら、梶原と違って人望が厚く、まさに武士の「鑑」(模範・手本)のような存在だったのです。ただ、三浦義村と和田義盛は、過去の因縁から、畠山のことを苦々しく思っていました。
源平合戦の一ノ谷の戦いは、義経の奇策「鵯越えの坂落とし」で知られます。このとき、馬が傷つかぬよう、畠山重忠は愛馬を担いで坂を駆け降りたと伝えられます。眉にたっぷりツバをつけたくなる話ですが、重忠の優しさと怪力ぶりを後世に伝えるにはうってつけの逸話です。