
畠山重忠の乱は1205年7月のこと。それからわずか2か月、牧の方の策謀から時政追放までの流れは、義時にとってあまりに都合がよすぎます。そして北条政子がいよいよ政治の表舞台に登場します。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。
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「時政・牧の方VS政子・義時」の対立
■牧の方の止まぬ野望
義時は罪悪感に駆られました。
畠山重忠が謀反を起こすつもりなどなかったことは、明々白々でした。その気になれば、畠山は数倍の軍勢を集められたことでしょう。

御家人たちは、重忠の死をどう見たのでしょうか?
〈重忠は冤罪に違いない。時政のはかりごとだな〉
義時と同じ思いでした。だれもが北条時政と牧の方に嫌疑の眼を向けたのです。時政もうすうすは感じていたことでしょう。息子だけでなく、他の御家人たちの心が離れつつあることを。
そしてこのとき、畠山の所領を恩賞として、御家人たちに分配したのは「尼御台所」北条政子でした。まだ幼い実朝の代わりに、政子が采配をふるったのです。
こうなると牧の方はおもしろくありません。憎悪を実朝にも向けました。というより、前々から謀っていたのでしょう。牧の方は時政に讒訴ではなく、おねだりをします。
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〈将軍にふさわしいのは、平賀朝雅殿じゃないかしら。朝雅殿は源氏の血を引いていますし、幼い実朝では荷が重すぎますわ。いっそ、実朝を討たれては?〉
と、将軍交代どころか実朝追討までおねだりしたかどうかは不明ですが、時政が牧の方に取り込まれていたのは疑いないでしょう。時政は実朝殺害を実行に移そうとしたのです。ただ、平賀朝雅の父は源氏の直系、母も頼朝の乳の母だった比企尼の娘でした。平賀は血筋としては悪くありません。
こうして、「時政・牧の方VS政子・義時」という対立の構図が鮮明になったのでした。