梶原景時はあえて“憎まれ役”を買って出た?
▶「一の郎党」ながら、讒言で身を滅ぼす
梶原景時
〈読み〉かじわら かげとき
生年 1140年代?
没年 1200年
出身 相模国
「13人」メンバーのなかで、最も悪名高いのが梶原景時でしょう。事実を曲げて人を陥れる。ありもしないことをチクり、失脚させる。これを讒言といいます。いつの世にも、どの社会にも存在しますが、梶原の場合は相手が悪すぎました。「悲劇の英雄」源義経を讒言で陥れ、死に追いやったからです。
源平合戦で義経が平氏を追い込んでいったとき、口を挟んだ景時は鼻であしらわれました。これを恨んだ景時が、頼朝にあるやなしやの告げ口をしたため、というのが通説になっています。
そんなヒールの梶原ですが、当初は義経に劣らぬヒーローでした。石橋山の戦いでは頼朝の窮地を救い、一ノ谷の戦いでは危機に瀕した二人の息子を助けて「梶原の二度駆け」と賞賛されました。頼朝の心中を察するのも早く、その意を汲んで、1183年には、威丈高な東国ボス上総広常を双六の最中にあっさり殺害しました。
武勇に優れているだけでなく、和歌をたしなむ教養も備えていました。文武両道に長け、汚れ仕事も厭わなかったため、梶原は頼朝の「一の郎党」(筆頭の御家人)となったのです。しかし、クラスのみんなからは不評。いや66人もの仲間から嫌われたのです。
単に頼朝のえこひいきだったのでしょうか?
いや、梶原はあえて“憎まれ役”を買って出た、頼朝はそう見ていたのかもしれません。組織にはこういう人間も必要です。さらに頼朝が評価したのが、梶原の“日報”でした。義仲を討った宇治川の戦い)で、他の者が勝利の結果しか記さなかったなか、梶原だけが討ち取った敵の名や様子などを詳細に記していたのです。サラリーマン的如才なさと実務能力においては、だれも梶原にかないません。
▶父の代より源氏に仕え、子は北条氏を支える
三浦義澄
〈読み〉みうら よしずみ
生年 1127年
没年 1200年
出身 相模国
相模国の大ボス。以仁王が1180年、平氏追討の令旨を出したとき、大番役として京都にいました。頼朝の挙兵を知り、石橋山の戦いに駆けつけようとしましたが、豪雨による河川の増水で間に合わず。それどころか、平氏が送った畠山重忠の軍によって、父・義明が討たれたのでした。その後ようやく、頼朝軍に合流。
合流後の源平合戦では範のり頼よりを助け、奥州征伐でも戦功を挙げました。頼朝にとってはオヤジ的存在で、「武」の部門ではいちばん頼りになるボスだったことでしょう。義澄の合流は、ほんとうに嬉しかったようです。
13人合議制のメンバーに選ばれたのは、豪放ながらも、面倒見がよかったからなのかもしれません。「体育」の通知表は高評価で、頼朝からは「道徳」も高い点数をもらえそうです。
三浦一族は桓武平氏の出でした。しかし、1051年に起こった前九年合戦(前九年の役)で源頼より義よしに従って以来、源氏に忠誠を尽くすようになりました。父・義明も子・義村も、源氏の通字「義」をいただいています。義澄は13人合議制がスタートして間もなく亡くなりましたが、子の三浦義村があとを継ぎました。
一方、跡を継いだ義村の「道徳」の点数は、人によって評価が分かれそうです。みずから撒た種とはいえ、梶原景時は義村を恨んでいることでしょう。66人の署名を集めて、弾だん劾がいした張本人ですから。
また、公暁による実朝暗殺の黒幕説、和田合戦での裏切り行為などから、義村の「道徳」欄は、グレーの文字に塗まみれています。しかし、北条氏からは最高点をもらえるでしょう。承久の乱のときも、義村は2代執権・義時を裏切ることなく、鎌倉幕府の存続に力を尽くしました。
北条氏の信頼も厚く、3代執権・泰やす時ときが評定衆を設置したときには、そのメンバーにも選ばれました。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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