ポスト頼朝時代は「比企VS北条」
■不可解な謀殺事件
その後も御家人たちの梶原への口撃は止まず。頼家は、「一の郎党」としてずっと頼りにしてきた梶原をやむなく追放します。
しかし、鎌倉を追われた梶原は、このまま引き下がりませんでした。
西国に向かい、仲間を集めて、鎌倉幕府を倒そうとしたのです。13人合議制や東国の御家人からは嫌われていましたが、源平合戦で平氏についた武士や滅ぼされた奥州藤原氏の生き残りで、梶原の取りなしによって命を救われた者も多く、全国には梶原を慕う武士がいました。和歌の才も持ち合わせていたので、都の貴族とも交流がありました。梶原の支持者は少なくなかったのです。
しかし、京に向かう途中、あえなく敗死。駿河国の武士に討たれたのでした。
梶原がもっていた所領は、梶原追討の論功を挙げた御家人たちに分配されました。なお、このときの駿河国の守護は北条時政です。
さて梶原景時追放の原因を作った事件の主な登場人物として、阿野全成を挙げました。
ここまで登場してきませんでしたが、阿波局とともに、梶原追放をくわだてた黒幕ともいわれます。阿野の姓は、所領(駿河国の阿野荘)を得るまで、源でした。実は全成は頼朝の異母弟、義経の実兄なのです。義経と折り合いの悪かった景時の死に兄が関与。偶然なのでしょうか?
それから3年後の1203年、頼家は、阿野全成を謀反の疑いで追討しました。
そもそも梶原弾劾は、阿波局の告げ口に端を発した事件です。頼家は、梶原を追放したことを深く悔いていました。頼家の胸の中では、全成と阿波局への不信感が膨らんでいたことでしょう。
全成謀殺を実行したのは、「13人」メンバーのひとり八田知家でした。八田は忠実に職務を果たし、梶原失脚のキーパーソンである阿野全成はあえなく殺害されます。
ちなみに、「ポスト頼朝時代は、『頼家=比企氏』VS『実朝=北条氏』の構図で幕を開けます」と記しました。頼家を支える比企能員はこのとき、政子に阿波局を引き渡すよう強く求めています。しかし、政子は拒否し、阿波局を京へ逃しました。
全成が何をくわだてていたのか、時政・政子父娘がどうかかわったのか。阿野全成謀殺事件は史料が乏しく、真相はわかりません。
いずれにせよ、頼家と北条父娘のあいだに亀裂が生じているのは明らかでした。