イラストレーション=メイ ボランチ

1190年11月、「鎌倉殿」はついに上洛を果たします。頼朝このとき44歳。14歳で伊豆に流されて以来、30年ぶりの都でした。そして、後白河法皇が亡くなり、まもなく即位した後鳥羽天皇によって、頼朝は晴れて征夷大将軍に任命されました。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

1192年「鎌倉殿」頼朝は征夷大将軍に

■「鎌倉殿」初めての上洛

 

それから1年余りのち。

 

1190年11月、「鎌倉殿」はついに上洛を果たします。頼朝このとき44歳。14歳で伊豆に流されて以来、30年ぶりの都でした。丁々発止のやり取りを重ねてきた「大天狗」後白河法皇とも、平治の乱以来のご対面です。

 

先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤が務めました。従う御家人の兵は約千騎。京の賀茂川には、東国の大ボスの姿と猛々しい大武士団をひとめ見ようと、大勢の人だかりができました。つめかけた群衆のなかには、牛車の窓から顔を出す法皇の姿もありました。

 

このころ、院政を補佐していたのは、実直な公卿九条兼実でした。1149年生まれなので、頼朝と同世代です。順調に出世の道を歩み、摂政・関白を歴任。ただし法皇とはそりが合わなかったようで、天皇による朝廷政治の真の復興を願い、頼朝に強い期待をかけていたのでした。

 

頼朝を迎える法皇も、このときばかりは殊勝でした。「大天狗」の鼻を突き出すことなく、頼朝を権大納言、右近衛の大将に任じたのです。しかし、まもなく頼朝は辞任し、武門の最高位である征夷大将軍の職を求めました。

 

法皇はこれを拒否しますが、1192年に頼朝の願いは成就します。

 

「大天狗」後白河法皇が亡くなったからです。享年66歳でした。

 

まもなく即位した後鳥羽天皇によって、頼朝は晴れて征夷大将軍に任命されました。このとき後鳥羽天皇はまだ13歳。将軍任命は九条兼実の推挙によって実現したのでした。

 

ただ、頼朝がほんとうに将軍職を求めていたのかについては、疑問の声もあります。都を離れても勤まる職が征夷大将軍だっただけ、貴族の高い官職には固執していなかった、などという見方です。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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