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またもや上洛中止も鎌倉軍事政権の完成
■兄弟ゲンカのゆくえ
「鎌倉殿」頼朝と「九郎判官」義経の兄弟ゲンカは、とうとう一線を越えます。
怒り心頭に発した頼朝が、京にいる義経のもとに刺客を送ったのです。義経は愛する静御前の機転もあって、これを撃退しました。さすがに義経もキレて、後白河法皇に頼朝追討の宣旨(命令を伝える文書)を求めました。
対する法皇は悩むまでもなく、あっさり応じました。
〈えっ!? なぜ? 法皇は頼朝に絶大な信頼を寄せていたんじゃないの?〉と思われる方も多いと思われます。
これには朝廷の置かれた状況が関係しています。直属の軍をもたない朝廷は、争乱やいさかいが生じた際、近臣の武士に頼るしかありませんでした。このとき法皇のすぐそばにいたのが義経で、彼がいなくなると朝廷は武力を失うため、機嫌を損ねるわけにはいかなかったのです。
事態を受けて頼朝は上洛を決意します。侍所の長官(別当)の和田義盛と次官の梶原景時に戦いの準備をするよう命じたのでした。
ところが、またしても上洛は中止になりました。今度は富士川の戦いの直後とは違い、東国のボスたちが阻止したわけではありません。戦うまでもなかったからです。
「九郎判官」義経は、味方となる武士を集めることができなかったのでした。都の武士たちは数々の争乱を経て、潮目をつかむ眼が肥えており、「鎌倉殿」頼朝に逆らうのは愚の骨頂と見たのです。
そんな空気を読んだ法皇は節操なく、翌月には義経追討の宣旨を出して手のひら返し、さすがの義経もこれには抗うことができません。
義経は失意のまま、叔父の源行家、愛妾の静御前、従者の武蔵坊弁慶らと都をあとにしたのでした。吉野(奈良県)などの山中を転々としたあと、義経一行が最後に向かった先は、奥州藤原氏の拠点平泉(岩手県)でした。しかし、途中ではぐれた行家は捕斬され、吉野で静御前は囚われの身となります。