1185年、守護・地頭の設置で「鎌倉幕府」が成立
■「鎌倉幕府」成立!
上洛の必要がなくなった頼朝は、代わりに義父・北条時政と約千騎の兵を京に送り込みます。「頼朝追討の宣旨」を出した後白河法皇を問いつめ、ゆさぶりながら、「東国」軍事政権樹立のために必要な宣旨を引き出すことがねらいでした。
ただ、百戦錬磨の法皇は一筋縄ではいきません。平治の乱後、自らが取りたてた平氏を義仲に討たせ、その義仲の追討を頼朝に依頼し、それを成し遂げた頼朝を義経に討たそうとした厚顔の「君子」です。
「君子豹変す」といえども、あまりに度が過ぎましょう。しかし、頼朝追討に対する「君子」の弁明は、その度をさらに上回りました。
〈ワシの本意ではなかったんじゃ。天魔のせいじゃ!〉
「天魔」は仏教用語で、人の善行さえもじゃまする魔王のことです。呆れた頼朝は、法皇に〈あなたは日本国第一の大天狗ですなぁ。あなたこそ天魔ですがな!〉と返しています。
京では、「大天狗」後白河法皇を相手に、しばらく影の薄かった時政が大仕事を成し遂げました。地道な交渉を重ね、「鎌倉殿」頼朝が望んでいた宣旨を引き出したのです。
全国に守護と地頭を設置することを認めるという宣旨です。
地頭は、土地管理の責任者。荘園や公領(国の領地、国衙領)を管理し、きっちり年貢を確保することを担う役職です。
守護は、軍事・警察の責任者。平氏の全盛期に新設された役職で、地方の各国の治安維持にあたりました。地頭を含む御家人の統率も職務に含まれています。
これは画期的なことでした。すでに「鎌倉殿」頼朝は、地方の統治者の任命権を握っていましたが、宣旨によって朝廷の“公認”を得られたからです。
当然、頼朝は自らに忠誠を誓う御家人を守護・地頭に任命します。
もともと守護・地頭の設置を頼朝に提言したのは、のちの「13人」のひとり大江広元でした。守護の設置は、奥州に逃れた義経を征伐する根拠にもなると、知略家の大江は考えていたのです。
これに先立って、頼朝は鎌倉に公文所と問注所を設置しています。公文所は政務一般をになう機関で、別当(長官)には大江広元が任ぜられました。数年後、公文所は政所と名称を変えます。
問注所は訴訟関係を扱う機関で、執事(長官)には三善康信(善信)が任ぜられました。三善も「13人」メンバーのひとりです。大江も三善も、頼朝が都から呼びよせた官人でした。ふたりとも中級以下の貴族で、朝廷での出世には限界があることを悟っていました。自分の力を発揮できる鎌倉に活躍の場を求めたのです。
こうして、中央に侍所・公文所(政所)・問注所、地方に守護・地頭が設置されたことで、鎌倉幕府の統治システムは完成しました。
いまの歴史教科書の多くは、明確に断定はしていないものの、1185年の守護・地頭の設置をもって、鎌倉幕府が成立したと見なしています。「いいハコ(1185/箱)つくろう鎌倉幕府」が令和時代の暗記法になりつつあります。
(編集部注)
「1185年、兵士の滅亡後、頼朝の権力の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当り5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、最後国もおよぶこととなり、武家政権としての鎌倉幕府が成立した」<『詳説 日本史B』(山川出版社)>
大迫 秀樹
編集 執筆業
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