幕府軍との戦いに備えて軍備を拡張
■後鳥羽上皇のしたたかな軍拡政策
後鳥羽上皇にとって、「ゼロ回答」は予想外でした。
焼けた大内裏の再建が思うように進まず、上皇はイライラが募っていました。そもそも大内裏を焼失させた源頼茂は、鎌倉幕府の御家人です。
〈あらゆる元凶は鎌倉幕府であり、そのトップにいる北条義時に他ならぬ。公武融和の道は捨てる。義時を討つ!〉
上皇の意思は固まりました。ただし、突発的な行動に出たわけではありません。後鳥羽上皇は幕府軍との戦いに備え、着々と軍備拡張政策をすすめたのです。前述したように、院の警護を強化するため、北面の武士に加えて、新たに西面の武士を新設していました。自衛部隊の増強です。
また、有能な軍人の“徴兵”にも乗り出していました。
眼を付けたのが、平賀朝雅の兄・大内(平賀)惟義です。
平賀朝雅は、北条時政と牧の方が次期将軍に立てようとしたものの、義時・政子にはばまれ、誅殺された元京都守護です。その兄を“徴兵”し、直属の部下に引き込んだのです。
大内は頼朝から信頼できる家人として重んじられていましたが、一連の“仁義なき戦い・鎌倉死闘編”の過程で、反北条へ転じていたのでした。息子の惟信も朝廷の主力軍に加わります。
また、もとより上皇から気に入られていた藤原秀康も正式に“徴兵”されました。秀康は藤原秀郷の子孫で、朝廷とつながりの深い西国の武士でした。この他、有力な幕府の御家人である佐々木広綱とその叔父・佐々木経高も朝廷側につきます。
それだけではありません。鎌倉幕府の重鎮たちの親族もつぎつぎに落とされ、“徴兵”されていったのです。
「在京の御家人は自分の身の置きどころに迷いが生じていた」状況です。御家人の多くは、おのずと朝廷と接近することにともない、上皇からそこそこの官位をあたえられていました。職も住も、そして忠誠心も、都に搦め捕られていったのです。
その代表が、幕府の重鎮三浦義村の弟・胤義です。三浦胤義は、左衛門尉・検非違使という高位を授かって上皇に付き従っており、他に選択肢はありませんでした。それどころか、胤義は鎌倉の兄・義村に向けて、〈幕府を捨てて朝廷に従おう。上皇からの恩賞も確実だぜ!〉という手紙まで送ったのでした。
武士だけではありません。北条義時・政子に次ぐ、幕府ナンバー3の官人大江広元の子・大江親広も朝廷側についたのです。親広は義時の娘を妻に娶っている、にもかかわらずです。
上皇の“徴兵”に応じなかった御家人は、どうなったのでしょうか? つぎつぎと粛清・処分されていきました。公卿でも、親幕派と見なされた西園寺公経が捕縛・監禁されました。
そして、1221年5月15日、後鳥羽上皇が全国の武士に向けて「義時追討の院宣」を出しました。承久の乱のはじまりです。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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