北条政子が政治の表舞台に登場
■江間小四郎から北条義時へ
時政と牧の方の策謀を知った政子は、実朝の身を案じました。時政の館から実朝を保護し、義時の館に移したのでした。
実朝奪回に協力したのは、三浦義村や結城(小山)朝光らでした。このふたりだけでなく、御家人の大半が政子の側につきました。
「鎌倉殿」が「鎌倉殿」たり得る条件は、血筋だけではありません。御家人からは、自分たちのほうを向いてくれるリーダー、御恩と奉公の主従関係に安心して身を任せられるボスが求められていました。それは、もはや性別も問わなくなっていたのでしょう。いつのまにか、多くの御家人が政子をボスと仰ぎ見るようになっていったのです。
時政は、政子から出家を促されます。「昔の剣今の菜刀(昔は名剣だったのに、今は果物ナイフになり下がった)」のごとく、御家人からの信を失ったいま、抗える道はありません。晩節を汚した時政は、所領の伊豆国で佗しい老後生活を送ることになりました。京の平賀朝雅も殺害されました。
この一連のできごとを、牧氏の乱(牧氏事件)といいます。1205年7月、畠山重忠の乱から2か月も経たぬできごとでした。
乱に名を残した牧氏こと牧の方は、その後、どうしたのでしょう?
藤原定家は、日記『明月記』に〈牧の方は、京でそしらぬ顔。何もなかったように、とてもぜいたくな暮らしをしている〉と皮肉まじりにつづっています。
時政を追放した江間小四郎は、正式に北条の家督を継ぎ、北条姓を名乗ることになりました。さらに北条義時は政所別当にも就任。幕府の行政権を手に入れました。このとき、42歳。脂の乗り切ったお年頃といってよいでしょう。
もうひとりの政所別当は、大番頭の大江広元です。こうして3代将軍実朝を支える、「北条政子・義時姉弟プラス大江」体制が確立されたのです。
ただ、こんな声もあります。
〈牧の方の策謀から時政追放までの流れは、義時にとってあまりに都合がよすぎる。義時か政子が書いたシナリオじゃないの!?〉
憶測が憶測を呼ぶ、この時代は、だれにも程よく想像力を広げる自由があたえられています。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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