「鎌倉殿の13人」に選ばれる理由
▶流人の頼朝に仕え、政子との縁もつなぐ?
安達盛長
〈読み〉あだち もりなが
生年 1135年
没年 1200年
出身 相模国?
出自は不明ですが、三善康信(善信)と同じく、乳母の縁で佐殿こと頼朝に従うようになりました。比企尼の娘を妻に娶っていたのです。1147年生まれの頼朝にとっては、ひと回り年上の頼れるアニキであり、長い付き合いから、本音で語り合える仲間でもありました。
盛長が頼朝と政子の仲を取りもったという話もあります。頼朝が好意を寄せていたのは政子の妹でしたが、妹のよからぬ噂を耳にした盛長は、頼朝が書いたラブレターの宛名を政子に書きかえて届けたとか?
元の姓は足立で、通称は藤九郎。1189年の奥州征伐のあと、奥州藤原氏から奪った陸奥国の安達郡を所領とし、安達姓を名乗るようになりました。官職をねだることなく、裏切りや陰謀などとも無縁? 頼朝の死の翌年、まるで頼朝を追うかのように亡くなりました。
▶アンチ平氏の旗頭、文武両道で幕府を支える
足立遠元
〈読み〉あだち とおもと
生年 1130年代?
没年 1210年ごろ?
出身 武蔵国
父の代から武蔵国の足立郡を拠点にしていました。父の弟が安達盛長という説もありますが、定かではありません。遠元と源氏との縁は深く、1156年に平治の乱が起こったとき、源義朝(頼朝の父)に従い、平清盛と戦いました。少年時代の頼朝の眼には、遠元の奮闘する姿が焼き付いていたかもしれません。
反平氏の旗頭で、決起した頼朝が武蔵国に入るや否や、仲間を伴って馳せ参じました。頼朝の信任を得たことで、足立の所領の諸権利を保障(本領安堵)されています。
東国ボスながら読み書きが堪能だったので、幕府では重宝されました。1184年に公文所(のちの政所)が設置されると、中原親能や二階堂行政らとともに寄人(スタッフ)に選ばれています。「13人」メンバーに選ばれたのも、こうした文武併せもった才能ゆえでしょう。
▶無断で官位を授かるがしっかり爪痕を残した?
八田知家
〈読み〉はった ともいえ
生年 1142年?
没年 1218年
出身 常陸国
足立遠元と同じく、源氏との結びつきは義朝(頼朝の父)の代からと深く、義朝の落胤説、つまり頼朝とは兄弟だったという説まであります。これが確かなら、義経たちとも兄弟ということになります。
平氏を滅ぼした義経は朝廷から官位を授かり、頼朝の怒りを買いました。このとき、知家も官位を授かり、頼朝から「怠け馬のくせに!」となじられています。そんな頼朝も征夷大将軍の官職に執着した一面があります。頼朝・義経・知家の3人にはこうした共通点があるものの、知家は宇都宮(中原・八田)宗むね綱つなの子とされています。
頼朝の死後、阿野全成が謀反をくわだてた(?)とき、知家は頼家の命を受け、全成を殺害しています。全成は大変な荒くれ者。そして彼もまた義朝の子という因縁めいた相手でした。「怠け馬」知家の蹄にしては、なかなか深い爪痕を残しました。
▶教師の家系にありながら、アウトドア派の働き者
中原親能
〈読み〉なかはら の ちかよし
生年 1143年
没年 1208年
出身 京都
明法博士・中原広季の子(養子、諸説あり)で、大江広元の義理の兄にあたります。「明法」とは、古代の法律全般(律令・格式)のことで、中原家は代々官僚の卵に明法を教える官職にありました。頭脳優秀でなければ務まりませんが、官位はさほど高くありませんでした。
頼朝とは早くから通じ合っていたようで、頼朝が挙兵したときには、平氏からスパイの疑いをかけられたほど。幕府では政所の寄人(スタッフ)として、別当(長官)を務める義弟・広元を支えました。
こうした経歴から典型的な〝文系インドア派〟に思われそうですが、源平合戦では義経や範頼を助け、奥州征伐にも従軍しています。その後も大仏再建や朝廷との折衝など、京都守護として東奔西走の日々。バリバリの〝体育会系アウトドア派〟の仕事人間だったようです。
▶初代「鎌倉殿」を支え、北条政権の礎をつくる
二階堂行政
〈読み〉にかいどう ゆきまさ
生年 1130年代?
没年 不詳
出身 京都
藤原南家工藤氏の流れを引く文官。母方が熱田神宮の大宮司家の出だったことが縁で、頼朝に仕えるようになったといわれます。頼朝が鎌倉に建てた永福寺(別名二階堂)のそばに居を構えていたことから、二階堂を名乗るようになりました。
幕府では、公文所と政所(公文所を改称)で別当の大江広元の下、政務裁断に関する事務処理に携わりました。大江が不在のときは職務代行者となり、13人合議制がスタートしたときには、大江とともに政所別当の一員でした。このころ、すでに60歳を超えていたとみられます。
子の行村と行光も頼家以降の幕府を支え、子孫も代々、政所の執事を務めました。行村は1225年に設けられた評定衆の一員にも選ばれています。地味ですが、二階堂家の鎌倉幕府への貢献度は二重マルです。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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