幕府の精神的支柱にして、理想の大番頭
▶沈着冷静な理想の裏方、幕府の精神的支柱
大江広元
〈読み〉おおえの ひろもと
生年 1148年
没年 1225年
出身 京都
日ごろは裏方として実務に徹しながらも、社長が迷走しかけたとき、事業運営に問題が生じたときには、前に出て英断を下す。企業に例えれば、大江広元は理想の大番頭でした。
実父は大江維光(諸説あり)ですが、中原家の養子になったことから、中原姓を名乗っていました。同じ「13人」の中原親能は義兄です。大江姓に改姓したのは、晩年近くのことでした。
朝廷での広元は、九条兼実のいちスタッフにすぎず、出世の望みが薄かったため、鎌倉に下向したと考えられています。声をかけたのは義兄・親能で、頼朝に参じたのは源平合戦最中の1183年末ごろと推測されます。
その後、政所(当初は公文所)の別当(長官)として、公文書の作成から、将軍の裁定、訴訟処理、儀式運営までを担い、幕府に欠かせない存在になりました。頼朝に守護・地頭の設置を進言したのも、奥州征伐の残務処理をしたのも、広元でした。頼朝の使者としてたびたび上洛し、朝廷との難儀な交渉役も務めています。
「体育」以外はオール5。常に沈着冷静で、唯一涙を流したのは、実朝が暗殺されたときだけといわれます。この暗殺事件のあと、北条政子・義時姉弟が率いる幕府は、後鳥羽上皇との対立を深めました。そして承久の乱が起こったとき、広元は前に出てアクセルを踏ませるのでした。政子の名演説の影に隠れた英断です。
承久の乱の最中、義時の館に雷が落ち、下働きの者が亡くなったことがあります。幕府軍が上皇軍をつぎつぎ破っていたころで、義時はその報いではないかと恐れました。
しかし、広元は〈奥州合戦の前にも落雷はありました。むしろ佳例(めでたいこと)ですぞ〉と安心させたのでした。広元は義時の精神的支柱にもなっていたのです。
▶裏方の裏方として、幕府を支えた出家入道
三善康信
〈読み〉みよし の やすのぶ
生年 1140年
没年 1221年
出身 京都
初代「鎌倉殿」頼朝には、比企尼の他にも数名の乳母がいました。そして乳母のひとりの妹が、三善康信の母でした。
こうした関係で頼朝と懇意になり、流人時代の頼朝に月に3度、都の情報や平氏の動向を記した手紙を送るようになりました。三善の手紙が頼朝挙兵に先鞭をつけたのです。朝廷では大江広ひろ元もとと同じ下っ端役人で、頼朝の求めに応じて1184年、鎌倉に下りました。
康信は「13人」メンバーのなかで、唯一の「出家入道」です。『吾妻鏡』には、1181年ごろから「入道善信」の名で登場しており、1184年に設置された問注所の執事になったときには、すでに出家していたのでした。「出家入道」とは、家督を保持しながら形式上の仏教僧になった者のことをいいます。三善は「鎌倉殿」頼朝をはじめ、みんなから法名の「善信」と呼ばれていたことでしょう。
この時代、出家する者は多かったのですが、政務に直接携わる出家者は限られていました。しかし、善信こと三善康信はずっと問注所の執事として、〝民事訴訟〟問題の処理・解決から幕府のコンプライアンスにまで携わったのです。
さらに奥州合戦の最中には、頼朝から幕府の留守も託されました。また、承久の乱に向けて幕府内が守勢論と先制攻撃論に分かれたときには、幕府の「ご意見番」として、大江広元と同じく先制攻撃論を唱え、幕府を勝利に導きました。
このように三善は幕府の功労者ながら、裏方の大江のさらに裏方という座に身を潜め、前に出ることはありませんでした。これは、「出家入道」であったことが大きく影響しているともいわれます。
その後の北条政権下では、「出家入道」がさまざまな形で重要な役割を担うようになります。三善はその先鞭もつけたのでした。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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