イラストレーション=メイ ボランチ

富士川の戦いのあと、頼朝は東国ボスたちの説得を聞き入れ、いったん上洛をあきらめます。その後、源平の戦闘はヒートアップ、平氏に圧勝し、先に上洛を果たしたのは、木曽(源)義仲でした。大きな戦功を上げながら残念な結末を迎えます。これを読めば大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が楽しめること間違いなし。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

一躍ヒーローとなった義経は…

■義経の快進撃、それとも暴走?

 

ここからの義経の活躍は目ざましいものがあります。

 

一ノ谷の戦いでは、裏山の急峻な崖から奇襲攻撃をしかけ、福原に陣取っていた平氏の大軍に大打撃をあたえました。「鵯越(ひよどりごえ)の坂落とし」として有名です。

 

ただ、この奇策は〈他人(多田行綱)の戦功が義経の戦功にすり替わったんじゃないの?〉などといわれ、またコースは別あるいは複数だったという説も出ています。

 

いずれにせよ、一躍ヒーローとなった義経は、法皇から左衛門の少尉の官位をたまわり、検非違使に任命されました。検非違使は京の治安維持を目的に、警察・司法を兼ねた役職で、その権限は絶大でした。

 

義経は喜々として受け入れたのですが、この叙任こそ、「兄の基本構想を弟・義経が理解できていなかったこと」だったのです。

 

義経の叙任は、東国の支配者である「鎌倉殿」の許可・推挙を得ぬままのものです。朝廷から独立した武家政権を構想していた、あるいは朝廷との程よい距離を模索していた頼朝にとっては、いまいましく、看過できないことだったのです。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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