「鎌倉殿の13人」東国の豪族たちはいつ頼朝を棟梁と認めたか イラストレーション=メイ ボランチ

初めて頼朝が真のリーダーと認められたのが、頼朝につき従う武士たちに本領安堵、新恩給与で報いたときだといいます。東国のボスたちは、「鎌倉殿」の御家人となり、「鎌倉殿」と御家人の封建的主従関係が成立することになります。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

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「鎌倉殿」はこうして誕生した

■劇的な退散?劇的な再会!そして

 

3回戦の場所は、駿河国(静岡県)の富士川でした。

 

敵は、清盛の指示を受けた追討軍。大将は清盛の孫にあたる平維盛でした。清盛は平家一門の嫡子を差し向けたのです。一方の頼朝は戦いに先立ち、甲斐国の武田氏に援軍を依頼していました。当然、富士川の戦いは熱戦が期待されましょう。

 

ところが、その火ぶたが切られることなく、頼朝軍の不戦勝に終わったのです。

 

『平家物語』は、富士川の戦いを次のように記しています。

 

〈対岸に陣取った平氏の兵は、水鳥が飛び立つ音を武田軍の夜襲と思いこみ、怖じ気づいて遁走した。〉

 

これは逸話にすぎないでしょうが、戦意に欠ける平氏軍が戦わずして撤退したことは疑いないようです。

 

翌日、頼朝は劇的な再会を果たしました。

 

平治の乱で生き別れになった弟が頼朝のもとを訪ねてきたのです。その弟の名は、「九郎」「牛若」こと義経。このとき22歳、たくましい若武者に成長していました。

 

京都の鞍馬寺で少年期を過ごしたあと、奥州藤原氏のもとに身を寄せていましたが、頼朝挙兵の知らせを耳にし、居ても立ってもいられなくなったのでした。

 

こうして頼朝軍に、大物ルーキーが加わったのです。その後、ルーキー義経は西国での平氏との戦いで華々しい活躍をしました。しかしあることで「鎌倉殿」の逆鱗に触れ、チームへの合流を許されず“解雇”されるのでした。

 

■いったん守りを固めよう!

 

さて、ここまで2勝1敗(うち不戦勝1)。まだ序盤戦ながら、シリーズ制覇が見えてきました。頼朝は一気に勝負に出ようとします。〈この勢いで京に上がり、平氏の拠点を攻めるぜ!〉と選手たちに命じたのです。

 

しかし、だれも首を縦に振りません。主力選手の三浦義澄、千葉常胤、上総広常が口をそろえて、こう諫たのです。

 

〈ビジターで戦っている隙に、北から敵が攻めてくるかもしれない。ホームの東国をまとめるのが先だ!〉

 

ともに平氏の支配を打ち破りたいのは同じですが、都で育ち父の仇を討ちたい「源氏の棟梁」頼朝と、東国に根を張り所領を守りたいボスたちとでは、戦いの目的が根っこから違ったのです。

 

頼朝は日本シリーズの制覇(=平氏打倒&新政権樹立)、東国のボスは年俸確保・アップ(=本領安堵&新恩給与)をめざして戦っていたのでした。

 

選手たちの意向を無視できません。そもそも頼朝には、直属の部隊がありませんでした。

 

いったん守りを固める! そして来きたる時機を待つ! そこで頼朝は源氏ゆかりの地、鎌倉に本拠地の都をつくることを決めます。

 

編集・執筆業

編集・執筆業。「広い視野で、わかりやすく」をモットーに、教養・雑学書の企画から執筆まで幅広く関わる。主なジャンルは、歴史・地理・時事・文章術など。日本史関連の著書に『おさらい3時間 !日本史のイロハ』(明日香出版社)、執筆協力に『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365歴史編』(文響社)ほか多数

著者紹介

連載「鎌倉幕府の謎」源頼朝と北条義時たち13人の時代

※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

学校の授業で歴史を習うときに必ず出てくる「鎌倉幕府」。日本で初めて本格的な武士による政治のはじまりとして覚えさせられた人が多いことでしょう。そこで、習った人には思い出していただきたいのが、鎌倉幕府の成立は何年と…

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