粗暴な「田舎モン」義仲のふるまいが
■「鎌倉殿」と「田舎モン」
その前にもうひとり。大きな戦功を上げながら、ザンネンな結果に終わった源氏を紹介しなければなりません。
源平の戦闘は、1183年から再びヒートアップします。
平氏に圧勝し、先に上洛を果たしたのは、木曽(源)義仲でした。倶利伽羅峠の戦い(石川・富山の県境)で、この戦でも大将だった平維盛の大軍を討ち破ると、義仲のもとには数万もの武士や僧兵が合流しました。みな、平氏に煮え湯を飲まされていた輩ばかりでした。
そんな荒武者を従えた義仲の大軍が都に迫ってくると、平氏の棟梁・平宗盛はいったん都を離れることを決意します。三種の神器を手に、安徳天皇をともない、一族郎党を引き連れて西国へと向かったのでした。まだ“主権”は手放していませんが、ついに平家の都落ちです。
当然、入洛した義仲は都で大歓迎されました。
これに、鎌倉の頼朝は破顔一笑したのか、それとも先を越されたと地団駄を踏んだのでしょうか?
どちらでもありませんでした。
都で生まれた頼朝は、朝廷への目配りを怠っていませんでした。朝廷を支えるのが武士の務め。後白河法皇と密に連絡を取り、朝廷を支える姿勢をしっかり示していたのです。
一方、木曽の山中育ちの義仲は、政治的な交渉術も駆け引きの策も持ち合わせていませんでした。それどころか、義仲の軍勢が都で略奪行為をはたらいたのです。最初は義仲を歓迎した京の人々も、これにはガッカリ。
法皇も粗暴な「田舎モン」義仲を毛嫌いしましたが、義仲は法皇を武力で脅し、征夷大将軍の官職を求めたのです。鎌倉にいたままなのに朝廷との関係が良好な頼朝に対する嫉妬心の裏返しだったのかもしれません。
義仲軍勢の乱暴狼藉も収まらないなか、都では頼朝待望論が急速に高まっていきました。平氏が落ち下ったあと、頼れるのは頼朝しかいません。
法皇は頼朝に、義仲追討を“発注”しました。その“リターン”として、頼朝に従五位下という貴族の官位をあたえ、さらに「寿永二年十月宣旨」を出したのです。東国の事実上の支配権を頼朝にあたえるという画期的な宣旨でした。「鎌倉殿」頼朝のバンザイ!
頼朝にライバル心を燃やす義仲は激怒し、法皇を幽閉しようとします。これに対し、朝廷のお墨付きを得た頼朝は、弟の義経と範頼に「義仲を追討し、院を守れ! 京の治安を維持せよ!」と命じたのでした。
義仲は女武者の巴御前とともに窮地を脱しようとしますが、「田舎モン」義仲のザンネン! あえなく京を追われ、宇治川の戦いで敗れたあと琵琶湖畔で討死しました。
しかし、これで「鎌倉殿」の天下到来となったわけではありません。都落ちしたとはいえ、平宗盛は三種の神器をもち、安徳天皇も一緒でした。福原で虎視眈々と平氏復活の機会をうかがっていたのです。また、西国各地には平氏を支持する武士も数多く残っていました。
そこで頼朝は法皇の意を受け、京を平定した義経と範頼に平氏追討を命じました。