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平氏追討にいざ出陣だったが…
■ネズミがネコに歯向かう?
治承・寿永の乱(源平合戦)は、歴史のターニングポイントのひとつといってよいでしょう。
伊豆にも平氏討伐の令旨が届き、機は熟しました。ところが、追って頼朝のもとに、「13人」のひとり三善康信の弟から京の情勢が伝えられたのです。
〈令旨を受けた者は、平氏に討伐される。早く奥州に逃げよ!〉
しかし、千載一遇の大チャンスを逃すわけにはいきません。このとき、頼朝は「鎌倉殿」への階段を駆け上がることを決意したのです。あるいは、恐怖心の裏返し、自暴自棄になったのかもしれません。が、ともあれ頼朝は東国各地のボスのもとに安達盛長ら腹心を派遣し、〈(全員に)あんただけが頼りなんだ!〉と打倒平氏の協力を求めました。
しかし、平氏一門の絶大な力を知るボスたちの腰は重く、賛同する者はわずか。なかには、〈ネズミがネコに歯向かってどうするんじゃ!〉などと、逆に罵倒するボスもいたくらいです。
結局、頼朝の挙兵にすぐ応じたのは、北条時政とその部下たちだけでした。さりながらその後、平氏が相模国に所領をもつ大庭景親の追討軍をよこしてくると、同じ相模の三浦義澄と和田義盛が参加表明をしてきました。なぜ頼朝が窮地に陥ってから味方したのでしょうか?
これには義澄の父であり、義盛の祖父でもある三浦義明の存在がありました。三浦義明は頼朝の父・義朝の家来でもあり、源氏への思い入れが深かったのです。そして三浦ファミリーの両家としては追討軍が勝つと、それを指揮した大庭が相模で幅を利かせるようになる、という打算的な危機感も共通していたことでしょう。
三浦義明自身は頼朝挙兵のとき、90歳近い高齢ながら意気軒昂で、〈ワシは源氏累代の家人。幸いにしてその貴種の再興のときにあった!〉と熱く語ったと伝えられます。これに息子の義澄と孫の義盛は従ったのでした。
兎にも角にも、だれもが平氏にビビるなか、三浦一族は手を挙げてくれたのです。頼朝の覚えが悪いはずがありません。のちにふたりは、「13人」のメンバーに選ばれます。
このころ都では、清盛が打ち出した福原(今の神戸付近)遷都が大きな騒動を引き起こしていました。平氏と院との関係も改善されぬまま。さらに、専横をきわめる平氏に延暦寺をはじめとする大寺院からの反発も高まっていたのです。
盤石だったはずの平氏独裁体制は、かなりグダグダになっていたのでした。