石橋山の大敗から東国を束ねるリーダーに
■3回戦前の大補強
頼朝・北条一行と三浦一行の房総半島への逃避行は、能楽「七騎落ち」の物語としても知られます。
物語が歓喜の酒宴で幕を閉じるように、半島南部の安房に逃れた一行は、〈西の平家&朝廷なにするものぞ!〉と高らかに再起を誓うのでした。
ここに、東国の長老格である千葉常胤と、同じく東国の大豪族である上総広常が加わります。千葉はもとは桓武平氏の出で、上総は非常に独立心が強かったのですが、予想以上に強い反平氏の流れに乗るのがベストと、源氏の「貴種」に帰服したのでした。
「貴種」の頼朝は戦場に出たことで、自然とカリスマ性も身につけていったのでしょう。房総半島を北上する過程で、畠山重忠らほかの東国のボスたちも、つぎつぎと加わりました。畠山は〈平氏には一度世話になったが、もう義理は果たしたので、代々の主人に仕えます!〉と源氏の旗下に加わったのです。
衣笠城の遺恨がある三浦義澄は、畠山の合流にいい顔をしませんでした。しかし、頼朝の説得によって鞘を収めました。
畠山重忠は1164年生まれで、小四郎こと北条義時と同世代。こののち頼朝に尽くし、多くの戦功をあげます。「13人」のメンバーにこそ選ばれませんでしたが、「鎌倉殿」誕生の最大の功労者のひとりといえるでしょう。
『吾妻鏡』は、このとき頼朝の軍勢は2万騎に膨れ上がったと記しています。これは盛った数字でしょうが、平氏との次の対戦を前に大補強は完成したのでした。
石橋山の大敗から約ひと月半で、頼朝は東国を束ねるリーダーとなったのです。
大迫 秀樹
編集 執筆業