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「鎌倉殿」の不遇な流人時代
①平氏の源氏一掃
院政期、都を揺るがす、ふたつの争乱が起こりました。
保元の乱と平治の乱です。
少しおさらいすると、院政を最初にはじめたのは白河上皇で、1086年のことでした。当初、上皇は自衛団こと「北面の武士」の一員として源氏を重用しましたが、やがて平氏に寄りかかるようになり、鳥羽上皇の時代には平忠盛が殿上人になったのでした。こうして、武士が用心棒を務める院政という新たな政治体制が定着したのです。
ところが院の力が増大するにつれ、上皇と天皇が対立するようになりました。これに藤原氏の内紛が重なり、1156年、後白河天皇とその兄・崇徳上皇の両派に分かれて内乱に突入したのでした。この保元の乱の経緯は、ドロドロとした複雑なものだったので、構図だけにとどめます。
後白河天皇側には藤原忠通・平清盛・源義朝がつき、崇徳上皇側には藤原頼長・平忠正・源為義・源為朝がつきました。
同様の朝廷内のいざこざは過去にもありましたが、これまでと違うのは、源平という武士が直接かかわったことです。そして雌雄を決する戦いを繰り広げたのは、武士たちだったのです。保元の乱は、後白河天皇側が勝利し、敗れた崇徳上皇は讃岐国(香川県)に流されました。
その3年後の1156年、今度は信西(藤原通憲)と平清盛・重盛ら、藤原信頼と源義朝・頼朝らの両派に分かれた乱が起こります。保元の乱の後、事実上の最高権力者となったクセモノ信西が信頼によって倒されたことで、乱に発展したのでした。
この平治の乱に勝利したのが平清盛です。清盛は義朝を殺害し、義朝の子でのちに「鎌倉殿」となる頼朝を伊豆に流しました。このとき頼朝はまだ14歳でした。
後白河上皇の信を得た清盛は出世の階段を駆け上がり、1167年には従一位を得ます。そう、武士として初めて太政大臣になったのでした。
②佐殿のアドバンテージ
平氏全盛の世、頼朝は14歳から34歳まで、実に20年あまり伊豆での幽閉生活を余儀なくされます。
配流先は従来、伊豆半島西岸の蛭ヶ小島(伊豆の国市)といわれてきました。しかし、当初は伊東祐親の監視下に置かれていたため、しばらくの間は伊豆半島東岸の伊東(伊東市)だったという説が有力です。
この伊豆半島のどちらかで、頼朝はどんな生活を送っていたのでしょうか。
その前に、頼朝の幼少時代を紹介しておきましょう。頼朝は「上総の御曹司」義朝の三男として生まれました。幼名は鬼武者(すごく強そうです)。通常、武家社会では長男・次男の順に重んじられますが、頼朝は三男ながら正式な跡取り候補として特別扱いされていました。
頼朝のアドバンテージは、どこにあったのでしょう?
頼朝の母は尾張国(愛知県西部)熱田神宮の大宮司の娘でした。熱田神宮は草薙の剣(三種の神器のひとつ)が奉納されているように、皇室との結びつきが強く、その長官である大宮司の身分はとても高かったのです。
幼少期から英才教育を受けた頼朝は、母の縁もあって早くから宮廷にとり立てられました。12歳で皇后に仕える役職に任官し、その後も鳥羽法皇の皇女、後白河上皇の皇女に蔵人として仕えます。運命が大きく変わるのは、平治の乱です。
最後は平清盛に敗れてしまいますが、一時は藤原信頼と父・義朝が内裏を支配しました。これにともなって、頼朝も従五位下「右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)」という官位をたまわりました。わずかな期間でしたが、この官位に就いていたため、流浪の地・伊豆で頼朝は佐殿(すけどの)と呼ばれたのです。
こうした家柄や血筋のよい人のことを「貴種」といいます。貴種であることが、頼朝の最大のアドバンテージだったのです。
とはいえ、源氏の栄光は過去のもの。平氏全盛の世において、周囲から佐殿こと頼朝は「落ちぶれた源氏のお坊ちゃま」という目で見られていました。
ただ、毛並みのよさに加わえて容姿も端麗だったことから、女子には人気でした。流した浮き名は数知れず。このあと佐殿の「下半身」がいくつかのトラブルを引き起こします。