昨日の敵であっても明日の味方になる
■初戦は圧勝、2回戦で大敗
話は挙兵直前に戻りますが、頼朝の最初のターゲットは山木(平)兼隆の館でした。
かつて山木は北条政子のフィアンセだった男です。
〈だからか!〉という訳ではありません。山木は平氏傍流とはいえ、清盛の息がかかった憎き目代(代官)です。山木を血祭りに上げれば、源氏派の東国ボスたちの血潮も滾るでしょう。
このとき、源頼朝は34歳。小四郎こと北条義時も、いまなら参政権がある18歳になっていました。頼朝軍は夜襲攻撃で一気に勝負を決め、初戦は圧勝しました。館を焼きはらい、山木の首も取ったのです。
2回戦の対戦相手は、平氏が送りこんできた先ほどの大庭景親でした。大庭は「東国の御後見」として清盛から厚く信頼され、相模国(神奈川県の一部)の守りを任されていました。戦いの舞台は、石橋山(小田原市)。
大庭の軍勢は約3千騎、これに対して頼朝の軍勢は約3百騎。戦力は圧倒的に劣っていましたが、頼朝軍はひるまず立ち向かいました。しかし、平氏側には伊東祐親の約3百騎も加勢し、多勢に無勢でした。
結果、この石橋山の戦いは大敗。数がすべてでした。頼朝と北条一家は這々の体で散り散りに逃げましたが、時政の跡継ぎである宗時が討死する惨事となりました。
このとき、頼朝軍が戦った相手に梶原景時がいました。梶原はのちに「13人」のメンバーに選ばれます。そのきっかけになったといわれるのが、下記の「頼朝最大のピンチを救う?」のエピソードです。
このあと、頼朝一行7人は、地元の地理に明るい土肥実平に導かれ、水路で房総半島に逃げ延びました。
なお、意気軒昂だった三浦一族は戦いに間に合いませんでした。それどころか、拠点の衣笠城を平氏軍の畠山重忠に攻撃され、同じく水路で房総半島へと逃れたのでした。
しかし、この畠山重忠ものちに頼朝のもとへ参じます。相模国出身の梶原しかり、武蔵国出身の畠山しかり、東国では昨日の敵であっても、明日の味方になるのでした。
石橋山の戦いで大敗した頼朝は、土肥実平らわずかの部下を従え、山中に逃げこんでいました。大庭景親の指令で、そんな頼朝を追ってきたのが梶原景時の一軍でした。
梶原は岩窟(大樹の洞とも)に隠れていた頼朝と土肥を見つけます。
しかし、大庭に知らせることなく、わざと見逃したのでした。『平家物語』など軍記物が伝えるエピソードで、信憑性にはハテナがつきます。
ただ、その後、梶原が頼朝を支えたことにハテナはつかないでしょう。汚れ仕事もいとわず引き受け、のちに梶原は「13人」のメンバーに選ばれます。