イラストレーション=メイ ボランチ

武士が中央政界に進出するまで、「鎌倉殿」が誕生するまでの歴史を振り返ります。この連載を読めば、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がよく理解できて、いっそう楽しめることが間違いなし。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

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武士が中央政界に進出するまで

①貴族とは?

 

「鎌倉殿」が誕生するまで、社会はどのように動いていったのでしょうか?

 

平安時代の半ばから見ていきましょう。

 

平安時代は、藤原氏を中心とする貴族の社会でした。貴族とはざっくりいうと、家柄や身分の貴い人のことですが、朝廷の位階でいうと五位以上の者をさします。

 

天皇が住む清涼殿に上がることが許された貴族を殿上人といいます。五位以上の者の多くは、殿上人として天皇に謁見できました。場合によっては六位以下でも認められることがありましたが、五位以上とそれ以下では、さまざまな面で待遇に大きな差がありました。

 

したがって、「五位」以上に叙されることは、とてつもない名誉だったのです。

 

こうした位階制度の言い出しっぺは、だれだったのでしょう?

 

初めて位階制度を導入したのは、推古朝のプリンスこと厩戸皇子(聖徳太子)です。

 

教科書にも太字で出てくる冠位十二階の制で、役人を能力と実績によって登用し、冠位をあたえて序列化したのでした。やがて律令制度の整備にともない、位階は細分化されていきました。

 

②閉ざされた「格差社会」

 

しかし、平安時代も半ばになると、朝廷の政治は先例と形式ばかりを重んじるようになり、役人登用を目的とした位階制度も機能しなくなっていきました。

 

藤原氏を筆頭とする一部の「上級国民」ならぬ、「上級貴族」が高い官位を独占し、世襲していったからです。都では、雅な貴族文化「国風文化」が栄えました。

 

こうして、平安の世は閉ざされた「格差社会」へと移っていったのです。身分の低い者に出世の道は開かれておらず、関東地方に割拠していた地方豪族こと東国ボスたちにとっては、都の出世競争などは遠い世界のことなのでした。

 

では、のちに天下をとる「鎌倉殿」は、どの地位を得ることになるのか? もののふ(武士)のなかで、だれが初めて五位以上に叙されたのか? そもそも、武士たちは朝廷の位階に興味をもっていたのか? 

 

<合戦に勝って(土地をもって)こそ武士。そんなサラリーマン的出世競争には目もくれないよ!>
<いや、閉ざされた遠い世界だからこそ、憧れもひとしおだったのでは?>
<身内に貴族がいれば、ちょっと鼻高だったんじゃない!?>

 

さまざまな声が聞こえそうです。

 

武士の心のうちに忍び入る前に、どのようにして武士が成長したのか、何がきっかけで政界に進出するようになったのかを見ていきましょう。

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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