上皇の用心棒になった源氏と平氏
⑤「鎌倉殿」の祖先
次の白河天皇も父・後三条天皇に負けず劣らず、やる気満々のタフな天皇でした。
父の政策を継ぎ、さまざまな改革に着手しようとします。しかし、朝廷は先例優先の保守社会でした。思い通りにならず、さまざまな制約に阻まれたのです。天皇であっても、先例を無視することはできません。
そこで、“自由”をめざす白河天皇は、奇抜な行動に出ました。ある立場になることで、政治的な制約から逃れようとしたのです。1086年、白河天皇はまだ幼い堀河天皇に天皇の地位をゆずり、上皇となったのでした。天皇にあった先例は上皇にはないと考えたのです。上皇による政治は、上皇の居場所「院」にちなんで、院政と呼ばれます。
院政はこのあと、鳥羽上皇・後白河上皇にも引き継がれ、100年あまり続くことになります。それは「鎌倉殿」が誕生し、13人合議制がはじまる直前までの時期と重なります。
源氏はこの白河上皇の院政がはじまる前、あることで朝廷に注目されます。東北地方で起こったふたつの豪族の内紛を鎮圧したのです。1051年に起こった前九年合戦(前九年の役)を源頼義が平定し、1083年に起こった後三年合戦(後三年の役)を頼義の子・八幡太郎こと源義家が平定したのでした。
源義家は後三年合戦の前に、出羽国や東国各地の受領を歴任していました。そのため、東国のボス連中(東国武士団)と強い結びつきがあったのです。そして後三年合戦のあと、あることをきっかけに、義家は彼らの厚い信望を集めました。何がきっかけになったのでしょう?
後三年合戦をおさめたとき、朝廷は義家が勝手にしゃしゃり出た、つまりは義家の私戦とみなし、戦った者たちに恩賞の官位や所領をあたえませんでした。しかし義家は、活躍した東国のボス連中に、自分の所領を分けあたえたのです。
私財を投じて、部下の軍功に報いる。男前ですね! こうして東国では、義家のとった行動と源氏への感謝の思いが代々伝えられました。そしてのちに、このボス連中の子孫が、「鎌倉殿」源頼朝のもとに結集するのです。
義家の行動に対し、さすがの白河上皇もシカトするわけにはいかず、義家を正四位下に取り立て、院の側近にしました。都でも義家の評価は高まり、「天下第一の武人」という名声もあたえられたのです。
東国ボス連中のなかには、義家に保護を求めて自分の領地を差し出す者もあらわれたほどです。さすがにこれは朝廷が禁止しましたが。
⑥「治天の君」の用心棒
一方でこの頃、朝廷はやっかいな武装集団に悩まされていました。白河上皇ですら「コレばかりは思いのままにならぬ」と語った次のみっつのうちの最後です。
賀茂川の水、双六の賽の目、そして山法師!
山法師とは、延暦寺が組織していた僧兵のことです。南都北嶺の寺社は、しばしば神木や神輿をかついで宮廷を訪れ、自分たちの要求を押し通そうとしました。これを強訴といいます。
白河上皇は自衛と僧兵対策を目的に、「院」の御所の警備に武士団を登用しました。この武士団は御所の北側に配置されたことから、北面の武士と呼ばれます。
この主力要員、つまりは「治天の君」(上皇のこと)の用心棒となったのが、源氏と平氏でした。当初、白河上皇は源氏を取り立てていましたが、義家が亡くなると、伊勢平氏(桓武平氏の主流)の平正盛を重んじ、北面の武士の筆頭に登用しました。正盛は平清盛の祖父にあたります。武士の力に頼ったことで、ますます武士の価値が高まることになります。
加えて、白河上皇や鳥羽上皇は、平安貴族「格差社会」の是正にも取り組みました。官位の低い貴族や武士にも政治での活躍の場を広げたのです。
正盛の子・忠盛も北面の武士の筆頭に登用され、上皇からさらに重用されました。都の盗賊を追捕するなど大活躍したことで、貴族に値する正四位の官位を得たのです。そう、源氏の義家に負けじと、平氏の忠盛も晴れて殿上人になったのです。
忠盛もまた西国の受領を歴任する過程で、西国の武士たちと主従関係を築き、九州では宋との貿易もはじめました。忠盛が基礎を築いたこの日宋貿易は、忠盛の子・清盛によって大きく発展していきます。
大迫 秀樹
編集 執筆業