武士団を統合、棟梁を中心に大武士団に成長
③“もののふ”の台頭!
平安時代中期、「上級貴族」こと藤原氏はライバルの貴族を一掃し、朝廷内での地位を確立していきました。「学問の神様」こと菅原道真を太宰府に飛ばしたのも藤原氏です。
藤原氏の十八番は、いわゆる政略結婚でした。自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を次の天皇にしたのです。そして天皇が幼いときは摂政、天皇が成人になると関白となり、天皇の外戚として朝廷の政治を動かしたのでした。
しかし、どんな栄華も永遠に続くわけではありません。何かの全盛期には、次の全盛期の下地がしっかり用意されているものです。「貴族の時代」の次にやってくる「武士の時代」の下地も、このころ着々と整えられていました。
10世紀半ば、天皇も貴族もその下地の力を見せつけられるできごとが起こりました。ほぼ時を同じくして起こった承平・天慶の乱です。一般には、平将門の乱と藤原純友の乱として知られています。
平将門は桓武平氏の流れをくむ豪族で、上総国(千葉県中部)を拠点にしていました。親戚とのちょっとした所領争いがきっかけで戦いはじめ、939年、東国各地の国府を攻め落として、一帯を支配したのです。みずから「新皇(新しい天皇)」と名乗り、朝廷と対立しましたが、一族の武士に不意をつかれ、敗死しました。
藤原純友は、伊予国(愛媛県)の国司でしたが、何が不満だったのか、936年以降、瀬戸内の海賊を組織し、各地で略奪行為を繰り返すようになったのです。朝廷は「従五位下」の官位をちらつかせてなだめようとしましたが、純友はこれを無視。それどころか、朝廷の九州の拠点・太宰府も襲撃したのでした。その後、乱は他の武士によってようやく鎮圧されました。
ここで押さえておきたいのは、乱を起こしたのも、乱を鎮圧したのも、武士だったということです。このふたつの乱を契機に、朝廷は武士の力を認めざるを得なくなりました。そして、武士は宮中や貴族の邸宅、寺社の警備に「侍」として登用されるようになったのです。
こうして、中央政界の皇族・貴族や地方のエリート役人(国司)らと結びついた武士は、一族郎党からなる武士団を形成していきました。
そのなかから、中小の武士団を統合し、棟梁を中心に大武士団に成長したのが、清和源氏と桓武平氏です。源氏は清和天皇、平氏は桓武天皇を祖としていました。
④欠ける藤原の満月、伸びる源平の月影
藤原氏の摂関政治の全盛期は、10世紀後半から11世紀前半。
特に藤原道長は「氏の長者」として、憎々しいほどの栄華をきわめました。絶頂期の道長が、<オレ様は完全無欠だぜ!>とばかりに、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだことはよく知られています。まあ、鼻持ちならない歌ですね。でも、4人の娘をすべて天皇に嫁がせたのだから、自らを「望月(満月)」に喩えるのもむべなるかな。のちに、桓武平氏の棟梁平清盛がこれをマネることになります。
道長の子・頼通の月も輝いていました。正五位下から従三位、内大臣へと用意されていた出世階段を駆け上がり、さらに父の跡を継いで摂政・関白の位についたのです。
頼通は、現在の10円硬貨にも描かれている平等院鳳凰堂を宇治に建てたことでも知られています。このころ、貴族のあいだでは浄土信仰が流行っていました。阿弥陀堂が中央に構える平等院鳳凰堂は、池を囲む広い庭園とともに、極楽浄土の世界をあらわしています。自分の力は現世に極楽を再現できると頼通は誇示したかったのかもしれません。
そしてこの時期、まだ月影のような存在だった桓武平氏と清和源氏が、少しずつ力を蓄えていきました。各地で頻発した地方豪族の乱を平定し、桓武平氏は西国に、清和源氏は東国を中心にそれぞれ月影を伸ばしていったのです。
一方、藤原氏の満月は輝きを失いはじめました。頼通もふたりの娘を天皇の后にし、「政略結婚」を成立させましたが、思い通りに事は運びませんでした。娘と天皇のあいだに男子が生まれず、アクの強いタフな後三条天皇が即位すると、頼通は外戚の座を失ってしまったのです。
そうなると一転、藤原氏に不満を募らせていた他の貴族たちが、やる気に満ちた後三条天皇をもちあげ、天皇親政を復活させたのでした。このとき、後三条天皇が事務方のトップとして登用したのが、「高才明敏、文章博覧、通世無比」と評された大江匡房です。
大江家は上級貴族というわけではありませんが、古代から文人・学者を多く輩出しています。なかでも匡房は「超」に「チョー」がつく偉才で、後三条天皇の後も白河天皇・堀河天皇と、3代にわたって天皇の侍読(家庭教師兼アドバイザー)を務めました。
この大江匡房の孫にあたるのが、「13人」のひとり大江広元です。広元は匡房の血をしっかり受け継ぎ、のちに裏方として「鎌倉殿」を頭脳で支えます。