「モーレツ社員」大崎…ホテル開業前後の過酷労働
ホテル開業一ヵ月まえになると、大崎の上司の蒲生は支配人に就任し、企画部は廃止された。それに代わって誕生したのが業務課で、大崎は業務課長に抜擢される。
業務課は野田社長直属のセクションであり、経営企画、宣伝広報、イベント企画、F&B(フード&ビバレージ=料理飲料)コストコントロール、完成したホテル施設の不具合調整など業務内容は多岐にわたった。この激務は、大崎のスキルをさらに大きく伸ばすことになった。
客室部門の事前予約状況は比較的スローだったが、F&B部門はとくに宴会の予約が絶好調だったので対応に追われた。大倉集古館内に置かれた事務所の役員室応接間で、大崎は一ヵ月間ばかり寝泊りをすることになった。警備のため集古館全体が午後6時以降は完全閉鎖されるので、残業するなら朝までやるしかなかったし、朝になったらそのまま就業という怒涛の勤務パターンだった。
高度成長期には私生活を犠牲にしてひたすら働く「モーレツ社員」なる言葉が生まれたが、大崎もまたそういう会社人間の一人だった。開業時には従業員数800人体制でスタートしたが、とくにF&B部門の労働力が不足していて、その補充が喫緊の課題となった。
そこで100人を急いで集めて現場に投入し、なんとかサービスレベルを維持することができた。開業してみないとわからないことが大型ホテルではじつに多いということである。まだホテルには従業員の仮眠施設もなく、レストランや宴会場の床で毛布をかぶってゴロ寝するという状況がつづいた。
従業員仮眠施設「アネックス」が完成したのは開業から3年経った1965年だった。業務課長としてホテル開業に力をつくした大崎は、そのあと取締役、常務(業務管理室長)、専務、副社長と順調に出世階段をのぼっていく。切れ者と評されて、さまざまな新サービスや施設の改善計画を主導していった。
バブル崩壊、魔の95年…最悪のタイミングで社長就任した大崎
そうして大崎がホテルオークラ社長に就任したのは1995年のこと。バブル崩壊の影響が本格的に日本経済を蝕みはじめていた時期で、この年の8月に兵庫銀行が経営破綻し、戦後初の銀行破産として注目を集めた。
95年といえば社会不安が一気に増大した年でもあった。1月に阪神淡路大震災が起こって関西経済圏の活動が大幅に停滞し、3月になるとオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生して東京の市民生活が混沌とした。
奈落へとむかう巨大な不良債権処理の悪夢は、やがて97~98年にかけて北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、山一證券、三洋証券などの破綻につながり、日本は底なしの不況にむかってまっしぐらに突き進んでいく。
