超強気な室料設定
宴会もやはり、宴会室料の設定をどうするかがカギとなる。料理の内容は希望単価によって自ずと決まってくるが、室料については客室料金と同様に、内装・設備・什器備品の費用や人件費(従業員+配膳業務外注分)を綿密に計算して算出する必要がある。
その作業の結果、ホテルオークラの看板宴会場である「平安の間」(970平方メートル)は一日貸し切り料金を140万円に設定することになった。1955年開業の赤坂プリンスホテル旧館(旧李王家邸を活用)の一日全館貸し切り料金(宴会場のみ約650平方メートル)がこのころ80万円だったから、比較するとやはりかなり高い。
「こんなに高くては売るに売れない。もう少し下げられないか」設定料金を諮ると、宴会営業担当は気色ばんだ。「宴会ではほかに競争相手はいない。使い方によっていろんな演出が可能になる。それを武器に自信を持って売ってほしい」大崎は施設・設備の優位性を細かく説いて相手を説得した。
平安の間は、国際会議にも使用できるよう七カ国語対応の無線通訳設備・体制を敷いたほか、三カ所のせり舞台(昇降装置を備えた舞台)を設けるなどさまざまな演出を可能としていて、たしかにそんな宴会場はほかのどんなホテルにもなかった。その使い方をいろいろと考えて提案すれば、企業の製品発表会や周年パーティーなどは可能性がどんどん広がる。雰囲気も華麗だった。
平安の間の両側壁面には、京都西本願寺に伝わる国宝和歌帖「36人家集」をモチーフとした大壁画が掲げられていた。この壁画は喜七郎会長の強い意向で設置が実現したもので、壁面画家の縣治朗が制作した。縣は、喜七郎と親交のあった古絵巻・古筆研究の大家で人間国宝の田中親美(しんび)の後継者である。
大崎がいったとおりに、その後の宴会営業は好調がつづいた。しかしその好調ぶりはなにも、最新の施設・設備や営業社員たちの努力によるものだけではなかった。社長である野田岩次郎の存在が大きかった。
野田はGHQによる財閥解体の主要業務で辣腕をふるった。解体対象となった財閥企業はGHQの手先になって働く野田たちを最初は白い目でみたが、やがては傘下企業の生き残りに力を貸してくれたことに恩義を感じるようになる。そして高度経済成長期に大きく成長したそうした企業群は、野田が社長を務めるホテルオークラを宴会や接待で使うようになった。
野田は長崎市の出身である。長崎は幕末のころからの造船基地であり、三菱造船をはじめ関連企業の拠点が多い。そうした長崎つながりの企業も、東京での宴会開催や宿泊でオークラをよく使ってくれた。
