あの頃、万博は夢だった…老舗御三家ホテルオークラが見た「日本の熱狂」と、現代の巨大イベントへの「シビアな視線」

あの頃、万博は夢だった…老舗御三家ホテルオークラが見た「日本の熱狂」と、現代の巨大イベントへの「シビアな視線」
(※画像はイメージです/PIXTA)

かつて、万博は未来への希望を象徴する夢の舞台だった。1970年大阪万博の熱狂は、ホテルオークラをはじめとする日本のホテル業界に限らず、各産業界を大きく後押しした。しかし、半世紀以上を経た現代において、巨大イベントに対する社会の視線は厳しさを増している。本記事では、ノンフィクションライターの永宮和氏の著書『ホテルオークラに思いを託した男たち』(日本能率協会マネジメントセンター)より、国際イベントによる隆盛、2つのショックによる衰退を経験した1970年代のホテルオークラの歴史を紐解きながら、当時の日本経済をみていく。

1970年の万博は希望に溢れる舞台だった

日本が東京オリンピックのつぎに誘致に成功した国際イベント、それが1970年(昭和45)の大阪万国博覧会だった。また、その2年後には札幌冬季オリンピックが開催された。

 

8年のあいだに3つもの国際イベントを開催する。その過程にはとんでもないエネルギーと手間を要したはずだが、敗戦からの完全復興と高度経済成長の成果を世界に強烈にアピールするための、日本による狂おしいまでのパフォーマンスだった。

 

ホテルオークラ開業の1962年から1972年の札幌オリンピック開催までの10年間で、日本の輸出額はじつに5倍となって貿易黒字が急拡大した1)。それが牽引役となって税収は太り国家財政は潤った。

 

かつての目標「帝国ホテル」に追いついたホテルオークラ

「欧米先進国に追いつけ」はもう夢ではなくなり「先進国の仲間入り」が現実的な目標となってきた。そうした国際経済のなかでの日本の立ち位置は、ホテルオークラに働く従業員たちの使命と同調するものだった。「欧米先進国に追いつけ」という国家の命題は、彼らが誓っていた「帝国ホテルに追いつけ」の命題に重なっていた。東京オリンピックまえの時期がホテル開発の第一次ブームだったとすれば、1965年から70年にかけては第二次ブームとなり、この5年間で、国内のホテル軒数・客室数はともにそれまでの倍増という状況となった。

 

関西では1967年から70年にかけて大阪キャッスルホテル、ホテル阪神、京都パレスサイドホテル、六甲オリエンタルホテル、ホテルプラザ、東洋ホテル、京都グランドホテル、千里阪急ホテル、京都プリンスホテルなどが続々と開業した。

 

このころになると、万博、冬季オリンピックといった国際的要因もさることながら、所得が増えた庶民が旅行をどんどん楽しむという国内的要因のほうが、むしろホテル開発ブームを後押しするようになる。

 

旅行ブームに合わせて市場を急拡大させたものに、コンパクトカメラもあった。掌サイズのオリンパスペンやヤシカエレクトロ35などは携行にたいへん便利で、初心者でも失敗なくきれいな写真が撮れるという謳い文句で超ベストセラー機となった。

 

そうしたコンパクトカメラや8ミリカメラ・映写機が、庶民の趣味として急速に市場拡大していった時代である。国際イベントの連続開催によって、国際観光目的地・日本の認知度は世界で格段にアップし、高度経済成長で国民の観光旅行市場が一気に拡大した。日本の観光業界はしばし、わが世の春を謳歌することになる。

 

次ページ1975年夏、突然の大きな変化

本連載は、永宮和氏の著書『ホテルオークラに思いを託した男たち』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、日本のホテル御三家の一角・ホテルオークラの経営について詳しくご紹介します。

ホテルオークラに思いを託した男たち

ホテルオークラに思いを託した男たち

永宮 和

日本能率協会マネジメントセンター

【内容紹介】 大倉喜七郎の生涯と、彼が人生最後の記念碑としてつくりあげたホテルオークラの誕生秘話、そして経営を託された野田岩次郎との二人の約束からはじまる知られざる歴史と、脈々と続く熱き経営への思いがいま明かさ…

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