大崎磐夫と大倉財閥の縁
大崎の家は、大倉家と近しい。磐夫の父親の大崎新吉は、大倉喜八郎と喜七郎の二代に仕えた番頭で、大倉財閥の入山採炭の会長を務めた。同社は戦中の政府の炭鉱整理方針によって浅野財閥の磐城炭鉱と合併して常磐炭鉱となり、新吉が引きつづいて会長を務めた。
そして大成観光では監査役にもなった。息子である大崎磐夫は市ヶ谷近くの4番町の家に生まれ、一橋大学をでるとすぐに父親の常磐炭鉱に入った。田舎道をフランス車ルノーで飛ばして炭鉱事務所に通勤するモダンボーイだったが、このあたりはどこか喜七郎と通じるところがある1)。
会社で配属されたのは経理部で、採炭の効率最大化を図るための原価計算の専門班に属した。折しも輸入石油が石炭にとって代わろうという時代で、徹底的に収支効率をあげないと事業は成り立たなくなっていた。原価計算専門班はそのために新設されたのだ。
入社して7年ほどすると石炭はますます石油に追いやられ、炭鉱事業は急速に斜陽化していく。30歳になっていた大崎はそこで炭鉱に先はないと判断し、父親に転職を相談した。
「旧大倉財閥の会社が石油事業に参入する。それから、喜七郎さんが東京でホテル事業に乗りだす。そのどちらかで仕事を世話してやろう」そう父からいわれた大崎は、迷うことなくホテルと決める。そして1960年5月中旬、父親と2人で銀座の大倉本館に喜七郎を訪ねる。頂点に君臨する会長と直に面談するのだから、これほど強力なコネ入社はない。
「炭鉱ではどんな仕事をしていたの?」そう問いかける喜七郎に大崎は、経理で原価計算班の主任をしていたと答える。「それはいい。これからのホテルでは君のような原価計算がわかる人材が必要だ」喜七郎からそう告げられて、若者はおおいに恐縮する。
昔はコスト意識の微塵もなかった喜七郎が原価計算という言葉を口にするのだから、人生最後の事業によほど慎重になっていたのだろうか。じっさいに完成したホテルの内外装や什器類にかけた費用の膨大さを考えれば、いかにも喜七郎らしい“無邪気”なその場かぎりの言葉だったという気がする。
もっとも、それだけ費用を投じて唯一無二に仕上げた空間や備品類が高く評価され、海外のトップビジネスマンや富裕層旅行者の支持を集めたのだから、費用対効果は十分にあったとみるべきだろう。
