がっかりした給与額
入社はすぐに決まった。旧大倉邸敷地にはまだホテルの影もかたちもなく、広大で起伏の多い敷地の隅に建つ大倉集古館の2階に開業準備室があった。そこに8月の暑い日、大崎は野田岩次郎社長を訪ねた。
いろいろ話した最後に給与の話になったが、野田は「しかるべく決めるから」と一方的にいいわたした。会長直々のコネ入社ということもあって大崎は期待した。ところが常磐炭鉱時代の月給2万7000円より低い2万4000円と決まって、大崎はがっかりした。
入社してからわかったことだが、ホテルの現場経験組は4~5万円で、未経験組とのあいだには大きな開きがあった。しかし大崎は仕事で成果をあげて昇給させてやるとこころに誓う。直属の上司である蒲生は支配人として迎えられたのだが、まだ「現場」は存在しないので企画部長として、さまざまな開業準備にあたった。
手はじめに着手したのは客室料金の設定だった。原価計算を専門にやっていた大崎としてはやりがいのある任務だったが、なにしろホテルというまったく未知の分野のこと、なにもかもが手探りだった。
もちろん帝国ホテルや横浜のホテルニューグランドなど、おなじ水準のホテルの料金は参考にする。しかしそれと同等とするだけでは利益を確保できる保証はない。客室面積、内装材・家具類・什器類のグレード、客室部門人件費などありとあらゆる原価・費用を緻密に計算して適正料金を算出するのでなければプロの仕事とはいえない。
ホテルの経験はないが商社や鉱山会社で活躍し、さまざまな会社の相談役・顧問も務めた野田と青木は、その点を強く突いてくる。蒲生の要求や助言にしたがって、大崎は計算作業を重ねていったが、まだ電子計算機は普及していなかった。
米国フリーデン社製の卓上電気計算機は日本にも登場しはじめていたが、大卒初任給が1万円の時代にそれは100万円ほどもした。国内では50年にカシオ計算機がリレー(継電器)式計算機を開発していたが、大きさは机大で、まだ試作品のような位置づけだった。コンパクトな(それでもキャッシュレジスター大だった)卓上型が登場して、企業現場に普及していくのは60年代後半からだった2)。
高額な収蔵美術品の盗難を防ぐためもあって、美術館である大倉集古館は午後6時で全館が閉まる。だからその2階にある開業準備室では残業ができない。それで2人は杉並にある蒲生の自宅で夕食をともにし、毎日のように残業をするのだった。
ホテルはまだ姿がないものの客室や宴会をまえもって販売するためには、料金体系をいちはやく決めなければならない。残業は連日遅くまでつづいた。蒲生宅で仕事に熱中していると、蒲生の幼い末っ子が部屋に闖入(ちんにゅう)してきて仕事のじゃまをした。その末っ子はやがてホテルオークラに入社して海外セールス課長を務めるようになり、大崎が仲人を引き受けることになった。
