「すまん、鍵が見つからない」——早朝の着信
「すまん、玄関の鍵が……どこに置いたか分からん」
午前5時。スマホの着信音で起こされた美咲さん(仮名・52歳)は、受話口の向こうの声に息をのみました。父・正治さん(仮名・87歳)は、地方の実家で一人暮らしをしています。
「え、どういうこと? いま家の中にいるの?」
「いる。昨日から探してる。どこにもない」
電話越しの声は焦っているのに、どこか淡々としていました。美咲さんはそのまま車を走らせ、実家へ向かいます。
鍵は、なぜか内側からチェーンが掛かっていない状態で開きました。
「……お父さん、昨日ちゃんと鍵、かけた?」
「かけたと思う」
家に入った瞬間、鼻をつく生ごみのにおい。居間には新聞とチラシが床に散らばり、テーブルの上には開封済みの惣菜パック。冷蔵庫を開けると、賞味期限が切れた食品がいくつも残っていました。
さらに美咲さんが青ざめたのは、台所でした。コンロのつまみが半分回り、鍋が空焚き寸前になっていたのです。
「これ……火、つけたままだったの?」
父は少し間を置き、こう言いました。
「……知らん。朝、湯を沸かそうとしたかもしれん」
美咲さんは以前から、父の変化を薄々感じていました。
●同じ話を短時間に何度もする
●役所の書類を開けずに積む
●通院日を間違える
●財布や印鑑を「盗られた」と言う(後で見つかる)
それでも父はいつもこう言います。
「一人で大丈夫だ。子どもに迷惑はかけん」
この日も、鍵の件で心配する美咲さんに、父は語気を強めました。
「お前が大げさなんだ。俺はまだ自分でできる」
けれど、床に落ちた薬の袋、溜まった未開封の郵便物、空焚き寸前の鍋。“できているつもり”と“できている現実”が、噛み合っていませんでした。
