公職追放で文化活動に活路
英国貴族にやってきた没落の悲運はやがて、日本の敗戦という一大転換点から喜七郎自身にも押し寄せてくることになる。GHQが命じた財閥解体と財閥家族の公職追放だった。
1946年(昭和21)12月、大倉財閥の中核企業である大倉鉱業がまず財閥解体第二次指定(40社)に入る。同社の株式総数約101万5000株のうち、喜七郎はその88パーセントを、大倉一族では97パーセントを保有していたが、それらはすべてGHQが日本に設けさせた持株会社整理員会の管理下に置かれ、市場に放出されていった。
また日本無線、内外通商も解体指定を受けた。大倉一族では喜七郎のほかに、義兄の大倉粂馬、従兄弟の大倉彦一郎、喜七郎婿養子の大倉喜雄が財閥家族対象となり、保有株が強制放出され、関係各会社の役員の座を追われた。
この時点での有価証券保有額は喜七郎が5104万8000円、粂馬が208万6000円、彦一郎が141万4000円、喜雄が119万9000円だった1)。帝国ホテルも、解体対象となった大倉鉱業に関連する制限会社(事業譲渡や財産売却・贈与などの権利を制限された企業)に指定され、喜七郎は社長の座を追われた。
父親から引き継いだ財閥の会社にはあまり興味がないが、ホテル事業には執着する彼にとって、それはショッキングな出来事だった。明治のなかばに父親が渋沢栄一らとつくりあげた国策迎賓ホテル、その代表の地位への未練は大きかった。喜七郎は、その無念を晴らすかのように、実業の世界とはかけ離れたところに自分の存在意義を求めはじめる。それがさまざまな文化活動を支えるパトロンとしての役割だった。
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