「お金は使わないためにあるもの」だった人生
「私、贅沢って怖いんです」
そう話すのは関東地方の公営住宅で一人暮らしをしている伊藤和子さん(仮名・78歳)です。年金は月約19万円。貯蓄は4,500万円ほどあります。
外食はほとんどせず、衣服も必要最低限。電気代節約のため暖房も控えめにする生活を続けています。
「昔から“贅沢は敵”と言われて育ったので」
和子さんは戦後生まれの世代。高度成長期に家計を支え、夫の給与を貯蓄に回し続けてきました。
金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査(2023年)』によれば、70歳代単身世帯の金融資産保有額は平均1,529万円。和子さんの4,500万円はその平均を大きく上回る水準です。しかし生活は極めて質素でした。
「お金は減らしたくないんです。減るのを見るのが怖い」
通帳残高は安心材料であり、使う対象ではありませんでした。
同居はしていないものの、娘の恵美さん(仮名・50歳)は定期的に和子さんの自宅を訪ねていました。ある冬の日、玄関を開けた瞬間、部屋の冷え込みに思わず身をすくめたといいます。
「暖房、つけてる?」
そう尋ねると、和子さんは笑って肩をすくめました。
「大丈夫よ、厚着してるから」
しかし室温計は15度を指していました。高齢者にとっては体調を崩しかねない寒さです。
「お金あるのに、どうしてこんな我慢するの?」
恵美さんが思わず声を強めると、和子さんは少し困ったように笑いました。
「もったいないじゃない」
そして、ためらうように続けました。
「長生きしたら、足りなくなるかもしれないでしょう?」
その価値観が揺らいだのは、75歳のときでした。軽い脳梗塞で入院したのです。幸い後遺症は軽度で済みましたが、医師からは生活環境の見直しを勧められました。
「もう少し暖かい環境で暮らしてください」
退院後、恵美さんは高齢者向け住宅への入居を提案しました。
しかし和子さんは首を横に振りました。
「まだ早いわ」
その言葉には、老いを認めたくない気持ちと、支出を増やしたくない不安の両方がにじんでいたといいます。
