カネを遣う天才「バロン・オークラ」
カネ遣いがどこまでも粗い喜七郎だが、けっして放蕩息子というわけではなかった。西洋音楽、美術、囲碁、文学、スポーツなどの振興のために私財を投じるパトロネージの活動も多岐にわたった。
音楽分野では、オペラ歌手の藤原義江、原信子、バイオリニストの諏訪根自子といった才能の海外修業に多額のポケットマネーを投じ、生活の援助もした。日本画壇では横山大観、前田青邨、文学界では島崎藤村、室生犀星、川端康成らを支援した。さらに囲碁の公益法人である日本棋院などは、設立資金全額を喜七郎が個人的に供与した。
経済面だけでなく、文化面でも「欧米に追いつけ」が一大命題だったこの時代には、気前よく私財を投じて文化育成に努めるそうした存在が日本にはぜひとも必要だったのだ。父親とちがってカネ儲けの才覚にはあまり恵まれなかったが、財閥の強大な財力をバックとした、そんじょそこらの経済人には真似できないこうした行動規範こそが、大倉喜七郎という人間の魅力である。カネ儲けの凡才は、カネを遣うことにかけては天才だった。
そうした文化活動にいとも容易く大金を投じるおおらかさ、貴族的なふるまいによって周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれ、身のまわりにはつねに彼の財力にぶら下がる者たちがたむろしていた。
立身出世して政商となり、政府や軍部との関係を深めながら大倉財閥を築きあげた父喜八郎は、猛烈な仕事人間だった。儲かると踏めば会社を山のように興し、市場寡占を果たせると読めば、平気で商売仇との合同を画策した。朝鮮や満州に巨大なビジネスチャンスがあると察すれば、迷うことなく現地に会社を立ちあげた。
そういう父親の背中をみて育った喜七郎だが、気質がまったくちがうので「ぼくも父さんのようになりたい」とはあまり思わなかったようだ。そうはなれない自分を感じていただろうし、父親もそういう跡取りに歯がゆさを覚えて、厳しく叱ってしまうこともたびたびだったらしい。
