平気で2000万円注ぎ込む…カーマニアの喜七郎
カーマニアだった喜七郎は、シルバーフライヤーを購入する以前からクルマを所有し、レースの訓練を積み、自動車整備の技能も身につけていた。英国で喜七郎に自動車レースのノウハウを教えたのは、トリニティカレッジの学友で2歳ほど年下のジョン・ムーア・ブラバゾンだった5)。カーレーサーであり、英国で最初に自国の空を飛んだ航空機パイロットであり、第2次世界大戦中にはチャーチル内閣で輸送大臣と航空機生産大臣を務めたという傑物である。
ブラバゾンのアドバイスにしたがったのだろう、レース出場をまえに、喜七郎は車両の軽量化のためにシルバーフライヤーに装着されていたフェンダーやエンジンカバーをすべてはずし、燃料タンクも円筒形の軽いものに換装した。さらにエンジンチューニングを施して最高出力を5馬力高め、125馬力とした。
そしてブルックランズ開設記念として催されたモンタギュー杯レースがいよいよスタートした。白のコートにピンクのキャップ、ゴーグルという派手ないでたちの喜七郎は、1周目は7位だったが、上位車の脱落にも助けられて徐々に順位をあげ、最終12周目でコース選択をミスしたメルセデスをかわしてみごと2位でフィニッシュした6)(ただしレースにはナビゲーター=運転助手として出場していたという説もある7))。
それで400ポンド(当時の邦貨で約4000円)の賞金、つまり超高級車購入費の約4分の1という額を手にしたのだから、単なるお坊ちゃんの道楽というわけでもない。
喜七郎は、そのときのことを取材した『時事新報』8)記事のなかで、モンタギュー杯レース出場への動機とその顛末をこんなふうにコメントしている。
わたしは当時ケンブリッジ大学にいたが、ある晩、学友たちと世間話をしていたとき、日本はたしかに日露戦争で勝利したが、こと自動車競走ではとても対抗できまい、と冷やかされたので、なに自動車競走だってやれば負けはしない、と反発して、ついに出場する羽目になってしまった。
(中略)
いよいよ当日になり、まずいろいろなレースがあって、それを切り抜けてモンタギュー・レースに参加した。幸運なことに2等賞に入り、4000円の賞金を手にしたときには天にも昇るような心地だった。このときの平均時速は92マイル(148キロ)で、自分はそれからも97~98マイルまではだしたことがあるが、どうしても100マイルの壁を破ることができなかった。
そんなとんでもないスピードで爆走するレースに出場していることを通信社の配信記事で知ってびっくりした父喜八郎は、息子にすぐさま留学を中止して日本に帰国するよう厳命した。甘い父親だったが、大事な跡取りが命の危険を冒してレースに打ちこんでいることを知れば、そうするほかない。学業に励んでいるとばかり思っていた息子は、まったくちがうことに心血を注いでいたのである。
