好きが高じて自動車会社を援助
逆らうこともできず命令に従った喜七郎はケンブリッジ大の卒業をあきらめ、それまでに買い入れていたクルマ5台を日本に送り、帰国後に日本初の輸入車ディーラーである日本自動車合資会社を立ちあげた。その5台とは、レースで使用したフィアット・シルバーフライヤーに加えてフィアット・ティーボ・ランドーレッド50-60、フィアット28-40、おなじくイタリア製のイソッタ・フラスキーニ12、ジーデルだった(注=数字は馬力を指す)9)。御曹司はどこまでもハイカラで、カネ遣いが粗いのである。
さらに彼は私財を投じて日本初の自動車団体となる日本自動車倶楽部も設立した。大隈重信に会長就任を頼み、喜七郎は執行副委員長という肩書だった。この団体はいまも活動をつづける日本自動車殿堂10)の前身である。自動車の事業では、喜七郎は外国車輸入だけでなく、製造にまで関与しようとしたこともあった。
英国から帰国した喜七郎は、それからすぐの1908年9月6、7日の両日、愛車フィアットを駆って福島・猪苗代への自動車旅行を敢行した。猪苗代湖畔に竣工したばかりの有栖川宮御別邸(天鏡閣)に有栖川宮威仁親王を訪ねる旅だった。威仁親王もまた「自動車の宮」の異名をとるほどのたいへんなカーマニアで、「東京から自動車で猪苗代の別邸まできてみよ」という御召に応えて喜七郎が自動車旅行を企画したのだった11)。
国産自動車メーカーのパイオニアである東京自動車製作所の吉田真太郎所長が助手席に乗り、さらにこの自動車旅行を随行取材する『時事新報』記者の竹内生と、喜七郎の秘書が後部座席に収まった。竹内記者はこのときの興味深い自動車旅行記を紙面で連載している。
同行した吉田真太郎は1904年に東京自動車製作所を設立していた。威仁親王の強い要請によって国産自動車の製造に乗りだし、07年に日本初のガソリン自動車(2気筒で4人乗り)を製造、09年にかけて合計11台の「吉田式自動車」を製造した12)。英国から帰国して活路を求める若き喜七郎は、同社の理念にすっかり惚れこむ。そして父親の大倉組をとおして多額の出資をし、組織を大日本自動車製造合資会社に改組して本格的な自動車メーカーへの道を模索していく。
ところがこの出資が父親に内緒だったので、親子間で大きな問題となった。さらに大日本自動車製造が送りだす自動車は輸入車の人気にはどうしても勝てず、業績はどんどん低迷した。やがて父喜八郎の命令で大倉組から社長が送りこまれ、同社は組織改編ののちに外国車販売と修理、輸入車を使ったハイヤーサービスを展開する企業へと生まれ変わっていった。そこではもう喜七郎の発言力はすっかり弱まった。
さて、このように情熱を傾けたクルマも、あくまで喜七郎の多彩な趣味の1つにすぎない。中節や長唄の腕前は玄人そのものだったし、少年時代から興じていた乗馬の腕前もたいへんなものだった。乗馬の趣味が高じて、ついには伊豆・川奈に広大な土地を購入して乗馬クラブをつくろうとした。これは川奈ホテル・ゴルフコースの原案となったものだ。
